【戦国武将に学ぶ】井伊直政~「赤備え」で先陣切った勇将~
- オトナンサー |
徳川家康の股肱(ここう)の臣として知られるのが「徳川四天王」ですが、その一人が井伊直政です。他の3人がいずれも松平家(徳川家)に代々仕えてきた「三河譜代」なのに対し、直政だけは隣国・遠江の出身で、しかも、父・直親は戦国大名・今川氏の最後の当主・今川氏真の家臣でした。
武田軍団の「象徴」を継承
その直親が家康への内通を疑われ、氏真によって殺されたため、虎松といっていた、そのとき2歳の直政は15歳まで、遠江・三河の各地を転々としていました。
ようやく、15歳の1575(天正3)年、直政は家康に仕えることになります。そのいきさつについて「井伊家伝記」では、たまたま、家康が浜松城下で直政を見つけ、「つらだましひ、尋常の人にあらず」といって、家康の方から声を掛けたとしていますが、井伊家関係者が「15になったのだから、家康に出仕させたい」と働き掛けたというのが実際のところだったと思われます。
家康も自分との内通を疑われて、父親が殺されたという事情を知り、特別な思いを持ったのかもしれません。初陣は翌年、武田勝頼と戦った遠江芝原の戦いといわれていますが、その後、家康軍の先鋒(せんぽう)として軍功を重ね、瞬く間に、13歳年長だった「徳川四天王」の2人、本多忠勝、榊原康政と功を競うようになります。
1582年3月、武田氏が滅ぼされ、その直後、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれると、家康は甲斐・信濃に攻め込み、その制圧に成功。武田遺臣およそ800人を自分の家臣団に取り込み、その1割近く、74人を直政につけています。このとき、武田軍団の象徴ともいうべき赤備え(赤や朱色の武具でそろえた軍団編成)が直政に継承されています。「井伊の赤備え」の誕生です。
1590年、豊臣秀吉による小田原攻めの後、家康は北条氏の遺領関東に転封されました。その際、本多忠勝、榊原康政がともに10万石だったのに対し、直政は上野(こうずけ)箕輪城(群馬県高崎市)12万石が与えられています。この12万石は徳川家臣団の中でのトップですので、この時点で、直政は三河譜代の酒井忠次、本多忠勝、榊原康政ら先輩を追い越したことになります。
関ケ原の奮闘が招いた早過ぎる死
直政の働きとして忘れられないのが、1600(慶長5)年9月15日の関ケ原の戦いです。このとき、徳川軍主力は徳川秀忠が率いる3万8000でしたが、途中、信濃の上田城攻めにてこずり、決戦当日、関ケ原に到着していませんでした。家康に従軍していた重臣クラスの武将は直政と本多忠勝の2人だけ。家康からの指示で、先鋒は福島正則と決められていたのですが、直政は「徳川の世をつくる戦いは徳川の家臣が始めなければ」との思いを持っていました。豊臣恩顧の武将が先陣を切ることに不満を持っていたのです。
そこで、直政は従軍していた家康の4男・松平忠吉を伴い、先陣の福島正則隊の横をすり抜けようとしました。案の定、福島隊の先鋒・可児(かに)才蔵から「待った」がかかります。そのとき、直政は「ここにおわす家康さまの4男・忠吉さまに前線の戦いぶりを見せるだけである」と言い、家康の子の名前を出されてひるんだ可児才蔵の横を通って、最前線に進出。西軍に鉄砲を撃ちかけています。
戦いは結局、松尾山に布陣していた小早川秀秋の寝返りによって東軍勝利に終わりましたが、西軍の中で、最後まで残っていた島津義弘隊が敵中正面突破という奇策で戦場から離脱しようとしたため、直政隊が追撃。島津隊の激しい抵抗に遭い、直政は鉄砲で撃たれ、負傷してしまいます。
直政のすごいところは、このようにわが身の危険を顧みず、突進していくところにあったわけですが、このときの鉄砲傷がもとで2年後に42歳の若さで亡くなってしまいました。家康は直政の功績を高く評価し、井伊家は幕末まで、彦根藩主として続くことになります。
静岡大学名誉教授 小和田哲男
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