日暮里駅にある騎馬像の人物って? 実は今の“東京”の価値を決めた人!? その功績とは
- 乗りものニュース |

東京の発展を語るうえで欠かせない人物
2026年は午(うま:馬)年になります。駅前で馬といえば、騎馬像が立っていることがあります。山手線では、日暮里駅に騎馬像があります。これは太田道灌(おおたどうかん)像ですが、彼はどのような人物だったのでしょうか。
日暮里駅の太田道灌像(画像:写真AC)
太田道灌は、室町時代末期から戦国時代初期にかけて、関東管領であった山内上杉氏を補佐した扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰(かさい:政務を代行することもある主君の補佐役)を務めた人物です。銅像自体は、1989年からJR日暮里駅前ロータリーに設置されています。実はこの道灌は、現在の皇居となっている江戸城を最初に築いた人物として、歴史上知られています。
道灌が太田家の家宰を継いだのは1456年で、鎌倉を治める鎌倉公方と、本来はその補佐役であった山内上杉氏との対立をきっかけに勃発した「享徳の乱」のまっただ中でした。この戦いは1454年から1482年まで、実に28年間も断続的に続いた争乱です。この乱をもって、関東地方は他の地域よりも早く戦国時代に突入したともいわれています。
その享徳の乱の時期、関東北部から圧力をかける鎌倉公方方の勢力に備えるために築城されたのが江戸城でした。のちにこの江戸城は、徳川家康が水運の利点などを考慮して居城に選び、周辺も含めて大きく発展していくことになります。
ただし、日暮里駅と江戸城(皇居)に近い東京駅は、同じ山手線の駅とはいえ、かなり離れています。なぜ日暮里なのかというと、この地域は道灌が敵情偵察も兼ねて、頻繁に鷹狩を行っていた場所とされているからです。そのため、銅像も狩りに適した狩装束の姿となっています。
現在の西日暮里駅近くには、重要拠点として砦の役割を果たす出城もあったとされています。ほかにも、本行寺には道灌の物見塚があったことを示す「道灌丘碑」があり、青雲寺には、舟で道灌の出城を目指す際の目印になったとされる「日暮里船繋松」の碑があります。
また、駅前にはこのほかに、道灌が和歌の修養に励むきっかけとなった「山吹の里伝説」に由来する、「山吹の花一枝」を差し出す娘の像も設置されています。
なお、有楽町駅近くの国際フォーラムにも太田道灌像があります。こちらは狩装束の立像です。もともとは旧東京都庁第一庁舎前に設置されていましたが、1991年に都庁が新宿区へ移転し、その跡地に国際フォーラムが建設された後、現在の場所へ移設されました。実は関東地方およびその周辺には、太田道灌の像がほかにもあり、合計で12体ほど存在するといわれています。
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