東武伊勢崎線はなぜ浅草がターミナル駅? 上野まであとわずか その歴史的背景をたどる
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首都圏の大手私鉄は多くが、始発駅を新宿や渋谷などJR山手線の駅に据えています。しかし東武伊勢崎線は浅草であり、ここにJR線は通っていません。あと少しで上野ですが、なぜ中途半端とも思える場所がターミナル駅なのでしょうか。
あと少しでJR山手線の駅に… 中途半端な感じも否めない浅草駅
東武鉄道は、関東の私鉄のなかで最も営業距離が長く、観光地である栃木県の日光や群馬県の赤城山などへも路線を伸ばし、「関東の私鉄の雄」ともいわれてきました。その東武鉄道の本線にあたるのが、浅草駅を発着ターミナルとする東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)です。同線から東武日光線を経て東武日光へ向かう特急「けごん」も、浅草駅が始発です。
東武浅草駅。側面にアーチ窓が連なっている2階にホームがある(2014年、内田宗治撮影)。
ところがこの浅草駅には、JRの路線が延びていません。他の東京の大手私鉄(東京メトロを除く)6社では、その本線格の路線は皆、山手線の駅をターミナルとしているのに、東武鉄道だけが異なるわけです(東武東上線は池袋駅がターミナルですが、伊勢崎線より短く支線も少ないことから、ここでは東武鉄道の本線格として扱わないものとします)。
地下鉄などが浅草駅へと通じているものの、同駅での地上の鉄道は東武伊勢崎線だけなので、東武鉄道浅草駅は、「関東の雄」のターミナルとしてはなんとも中途半端と、筆者(内田宗治:フリーライター)は感じてしまいます。陸の孤島駅といった感じさえします。
東武浅草駅の開業は1931(昭和6)年です。東武鉄道は、なぜ浅草をターミナル駅の地としたのでしょうか。
なお記事中の写真につきましては、東京都による外出自粛要請に従い筆者の判断で現地撮影取材などを自粛したため、過去の写真を掲載しています。
かつては新宿や銀座よりも繁華街だった浅草
東武鉄道が浅草をターミナル駅の地とした理由のひとつに、かつて浅草は東京一の繁華街だったことが挙げられます。
1960年代頃まで、東京の市街には、2020年現在の地下鉄路線よりさらに細かい網の目のように市電(都電の前身)が走っていました。1923(大正12)年6月7日に行われた東京市電の乗客調査では、東京市内に360あった市電停留場のなかで、雷門(浅草)停留場が乗降客数1位(5万3716人)となっています。そのほか、日本橋(3万1518人)、銀座四丁目(2万3415人)、新宿駅前(1万5400人)といった繁華街の市電停留場と比べると、いかに浅草が賑わっていたか想像できるでしょう。
浅草は特に、娯楽演芸関連の劇場、映画館の多さでも群を抜いていました。1950年代後半がその全盛期といわれます。その後はテレビの普及で演芸や映画界の斜陽化が進み、新宿など山手線各ターミナルの発展から取り残される形で、浅草は相対的に、急速に賑わいを失っていきました。
1934年の浅草雷門駅。1945年に現在の浅草駅へ改称(画像:『東武鉄道百年史』東武鉄道社史編纂室編)。
東武伊勢崎線の歴史を振り返ってみましょう。明治時代、日本が外貨を得るための主力は繊維産業でした。群馬県東部から栃木県西部にかけては、国内でも有数の養蚕と製糸、織物生産が盛んな地帯で、東武鉄道はこの地域と東京を直結する目的で建設されます。
1899(明治32)年、まず北千住~久喜間が開通しました。次いで1907(明治40)年に織物業の本場である足利町(現・栃木県足利市)へ、1910(明治43)年に群馬県の伊勢崎へと延伸していきます。
亀戸を経由し、久喜~両国橋間を結んだ東武線
東京側では北千住から先、隅田川の東側をそのまま南下し続け東京湾沿いの越中島に至り、そこから西に折れ京橋を経て東海道線の新橋駅へと向かうルートを計画していました。北千住駅から吾妻橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)までを1902(明治35)年、途中の曳舟駅から越中島方面へ向けて亀戸駅までを1904(明治37)年に開通させます。曳舟~亀戸間が現在の東武亀戸線です。
明治時代に計画された、亀戸などからの延伸計画図(画像:『東武鉄道百年史』東武鉄道社史編纂室編)。
亀戸駅は総武鉄道(現・JR総武線)との接続駅でした。東武鉄道の列車は総武鉄道へと乗り入れて、久喜方面から北千住、亀戸を経由し、両国橋(現・両国)行きの列車が運行されていました。現在2両編成の電車がのんびり走る東武亀戸線は、開通当初、東武鉄道の大動脈路線だったわけです。
亀戸駅から先は用地買収が難しくなったようで、東武鉄道は都心乗り入れルートを変えて、吾妻橋駅(1910年 浅草、1931年 業平橋、2012年 とうきょうスカイツリーに駅名改称)から西に向かって上野駅へのルートを申請します。これが認可されていれば、東武伊勢崎線も山手線駅がターミナルとなったのですが、1923(大正12)年に関東大震災が起き、その後の東京市の復興都市計画により上野駅へのルートは却下され、ほとんど強制的に、現在の浅草駅の土地が駅用地として決定されてしまいます。
なぜ東武浅草駅は急カーブなのか
その駅用地は、すぐ近くの隅田川に並行する細長いものでした。吾妻橋駅を出て隅田川を渡った後、90度急カーブして浅草駅に入ることになります。しかも東武グループの総帥 根津嘉一郎が、申請書の提出後に、「何としても浅草にふさわしい立派な駅ビルを建設せよ」と言い出しました。
そうしたこともあり、橋のたもとから駅ビルのなかへ半径100mという、とてつもない急カーブを設けざるをえなくなりました。両渡り分岐器(隣の線路へ渡るポイント)を、当時としては異例の隅田川橋梁の上に設けるなど、技術陣も知恵を絞ります。
東武浅草駅ホーム。急カーブ地点には、ホームと電車のあいだに渡り板がかけられている(2009年、内田宗治撮影)。
急カーブの様子は、現在でも浅草駅を訪れるとよく分かります。ホームによっては先端付近からこの急カーブは始まっていて、車両とホームのあいだが著しく開いてしまっています。危険なので列車先頭(北千住寄り)2両のドアは開閉しない箇所があったり、特急電車では先頭付近ホームと車両の乗降口のあいだに、持運び式の渡り板を置いて対応したりしています。電車はこの急カーブを、車輪の音をきしませながら15km/hで走行しています。
伝統的な店が多い浅草には、駅にも様々なドラマがありました。
※一部修正しました(4月20日16時20分)。
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