「フェアレディZの父」こそ社長に相応しかった! ゴーンすら染まった日産の「負の連鎖」とは
- 乗りものニュース |

業績が急速に悪化した日産。しかし不振を繰り返した背景には、社内に蔓延る官僚主義とそれに起因する独裁があったのではないでしょうか。日産に多大な貢献をした「フェアレディZの父」を冷遇したことが間違いでした。
追浜工場閉鎖を決定した日産、業績不振の背景にあるものは?
2025年7月15日、日産のイバン・エスピノーサ社長兼最高経営責任者(CEO)は記者会見で、神奈川県内にある追浜工場(横須賀市)と日産車体湘南工場(平塚市)の2拠点を、それぞれ2026年度末と2027年度末までに閉鎖すると発表しました。
北米市場で商業的に大きな成功を収めた初代(S30型)ダットサン 「240Z」と、現行型となる7代目(RZ34型)日産「Z」(写真はともに北米仕様)。
現在の日産不振は、同社の屋台骨を支えている中国市場と北米市場、この2大市場で販売不振に陥っていることが原因です。前者は経済が失速し、かつ民族資本のEVが台頭したことで日産車の販売が落ち込んでいます。一方、後者は乗用車に用いられるCVTと、SUVやピックアップトラック用のリアデファレンシャルの設計、双方に不具合があり、消費者から集団訴訟を起こされるなどして人気が低迷し、販売台数が急減しています。
加えて、現在の日産には他メーカーがラインナップしているハイブリッド車やPHEV車がないことも、顧客を遠ざけている要因といわれています。
ただ、振り返ると日産は過去にもたびたび経営危機に陥っており、その都度、工場閉鎖や人員削減などのリストラを繰り返してきました。なぜ、日産は経営危機を何度も繰り返すのでしょうか。
その背景には、経営陣のなかに独裁と腐敗が生まれやすい官僚主義的な体質があることが挙げられるでしょう。
キッカケとして挙げられるのが、1957年に8代目社長に就任した川又克二氏(のちの初代日産会長)です。彼は労組トップの塩路一郎氏と癒着して歪な経営体制を容認し、塩路氏が立場を超えて経営や人事に不適切な介入を繰り返したことだと言われています。
1977年に川俣氏は石原俊氏を10代目社長に取り立てたものの、石原氏の拡大政策に塩路氏が猛反発し、これに会長の川又氏が同調したことで社内は大混乱。その結果、日産の経営は大きく傾きました。
その後も「日産社内相争い、余力を持って自動車を売る」という状況が続き、同社は次第に消耗していったのです。その結果、1999年に倒産一歩手前へと追い詰められ、危機を救う救世主としてルノーからカルロス・ゴーン氏が来たのは記憶に新しいところでしょう。
ところが、彼もいつのまにか日産の悪しき社風に染まり切り、その末路は金融商品取引法違反と特別背任容疑による逮捕、最終的にはスパイ映画さながらの逃亡劇を引き起こしています。
正当な評価を得られなかった「フェアレディZ」の父
かつて「技術の日産」と呼ばれていた同社には、数多くの優秀なエンジニアがいました。しかし、彼らがいかに実績を残そうとも、政治力がものをいう社風では社長になることは難しいのが実情で、役員に取り立てられることさえ稀でした。事実、川俣氏以降の10人の日産社長のうち、技術畑出身は久米 豊氏と辻 義文氏、現CEOであるエスピノーサ氏の3人だけです。
「フェアレディZ」の父として世界的に有名な片山 豊氏。1960年に米国日産(NMC)を設立し、1965~1977年まで北米日産社長を務めた。1998年に米国自動車殿堂入りを果たす。2015年没。生前はフランクな人柄で世界中のファンから慕われていた。
ただ、このような日産ですが、過去、本来なら社長に就任してもおかしくないほどの経営能力と実績を持っていた人物がいなかったわけではありません。それは「ミスターK」こと片山 豊氏です。彼は技術者ではなく販売の人間でしたが、自他ともに認めるカー・ガイ(カーマニア)で、クルマの良し悪しを見抜く能力に秀でていました。
その経歴をひも解くと、片山氏は1935年に日産へ入社。宣伝を担当したのち、国策会社の満州自動車へと出向しています。
終戦後は日産に戻り、再び宣伝を担当すると、その際に国内自動車メーカーに働きかけ、1954年に「第1回東京モーターショー」(当時の名称は「全日本自動車ショウ」)の開催に尽力しています。そこれショーに出展するため、軽自動車の元祖となる「フライングフェザー」を住江製作所(現・住江工業)で仲間と生み出し、のちに200台製造する実績を残しています。さらに彼は、1958年にオーストラリア・ラリーへ参戦し、初参加ながら1000cc以下クラスで優勝する快挙も成し遂げました。
ところが、その活躍が嫉妬を買い、片山氏は日産社内で冷遇されるようになりました。社内で居場所がなくなった彼は北米への赴任を命じられます。当時の日本の自動車産業は実力不足もあって海外市場をまったく重視しておらず、この人事は体の良い島流しだったと言えるでしょう。
しかし、渡米した片山氏は改革に着手し、支社のあったニューヨークとは別にカリフォルニアに現地法人を設立すると、商社を頼ることなくダットサン・ブランドの販売・サービス網を構築し始めました。そして、自ら個人経営の中古車店に飛び込み営業をかけ、「まずはアンタが儲けろ。我々はそのあとで良い」といったハナシで店主を口説き落とし、代理店を増やしていきます。
まずは安価なピックアップトラックで販売の足がかりを築くと、経営が安定したところで高性能と価格の安さを武器にダットサン「410」や「510」(日本国名では「ブルーバード」名で販売)で販売拡大を実現しました。
日産復活の鍵は「カー・ガイ」を正当に評価すること
北米での経験を通じて、若者向きの安価なスポーツカーの必要性を痛感した片山氏は、腰の重い日産本社を粘り強く説得し、ロングノーズ・ショートデッキ、クローズドボディの「フェアレディZ」を開発させます。このクルマが爆発的にヒットしたことで、北米で「ダットサン」の名を定着させると、フォルクスワーゲンを抜いて日産/ダットサンを輸入車のトップブランドへと押し上げることに成功したのです。
北米市場で最初のヒット作となった3代目(120型)ダットサン「トラック」。
こうして北米市場を開拓し、日産本社を大いに潤わせた片山氏でしたが、17年におよぶ北米勤務を終えて帰国すると、待っていたのは子会社の役員という多大な功績に見合わないポストでした。
当時、社長を務めていた石原氏は、かつては輸出部門の責任者という地位にあったため、片山氏の活躍を逆に快く思っていなかったとか。そのような私怨からか、日産は1981年以降、段階的にダットサンを廃止し、ブランド統一を図ることを発表します。北米では圧倒的な知名度を誇り、多くのファンを育ててきたダットサン・ブランドを自ら手放したのは日産にとっては失敗であり、あまりにも愚かな決定でした。
フランクな性格の片山氏は、日産退任後もアメリカにおいて「ミスターK」あるいは「Z-carの父」として慕われ続け、カーイベントのゲストとしてたびたび出席するなど精力的に活動して多くのファンと交流を深めました。それらが実を結び、1998年には本田宗一郎氏に続いて日本人ふたり目となる米国自動車殿堂入りを果たすまでに至っています。
片山氏の実績と能力が正当に評価される社風であれば、日産は何度も経営危機を繰り返すようなことはなかったことでしょう。筆者(山崎 龍:乗り物系ライター)が思うに、まずは社内から官僚主義と腐敗を一掃すること。そして、彼のようなカー・ガイが活躍し、相応の地位を得て活躍できる環境を作ること、それこそが日産復活のための第一歩なのではないでしょうか。
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