スターリンも悩んだ! ソ連に飛来したアメリカの爆撃隊どう扱う? 秘密警察が考えた「稀代の大芝居」とは
- 乗りものニュース |

1942年の今日は、日本本土が初めて爆撃された日です。アメリカ軍の爆撃隊は太平洋上の空母を発つと日本に爆弾を落としたのち、日本海を横断して大陸を目指しましたが、1機が侵入禁止だったソ連領内に着陸。その乗員たちのその後を見てみます。
自軍機…? いや、アメリカ機だ
1942(昭和17)年4月18日17時頃、極東ソ連(当時)のウラジオストック北方、ソシエフ岬に布陣する第19独立防空連隊の監視隊が、海から接近する双発双尾翼の飛行機を発見しました。当初は味方のYak-4爆撃機に見えたため、特に注意しなかったものの、無線に一切応答がないことから異変に気が付きます。
2機のI-16戦闘機がスクランブル発進し、ウラジオストックから約86km北のヴォズドヴィデンカ軍用飛行場付近で双発機を捕捉。I-16のパイロットは、その航空機が白い星の国籍標識を付けたB-25であることに驚き発砲を躊躇しました。その間、着陸の許可が下りたと判断したB-25はそのまま飛行場に着陸してしまったのです。
アメリカ軍のB-25双発爆撃機。ドーリットル空襲へも投入され、うち8番機はソ連領内に着陸した(画像:アメリカ陸軍)
B-25とYak-4は外見がよく似ています。基地のソ連兵は驚き、疲労困憊で降りてきたアメリカ人に「どこから来たのか」と当然すぎる質問を浴びせました。
機長エドワード・ヨーク大尉以下5名の乗員は当初、アラスカから来たなどとごまかしますが、日本爆撃に参加したことを否定できませんでした。このB-25はアメリカ軍のドーリットル爆撃隊16機のうちの8番機で、同日の午前8時47分に太平洋上の空母「ホーネット」を発進すると、栃木県の西那須野駅、新潟県の阿賀野川橋梁付近を爆撃し、約9時間飛行してこの飛行場にたどり着いたのです。燃料タンクはほとんど空でした。
ドーリットル爆撃隊は攻撃後、中国浙江省衢州(くしゅう)の飛行場に着陸することになっていましたが、機器の不調で燃料消費が早く、ヨーク機長はたどり着けないと判断して、禁止されていたソ連領へ機首を向けたのでした。ドーリットル爆撃隊の中で無事着陸できたのは8番機だけで、ほかは燃料切れで墜落、もしくは不時着していたので、ヨーク機長の判断は正しかったといえます。
彼は燃料補給してくれれば直ちに中国へ向けて飛び立つと話し、基地司令も了解します。基地のソ連兵は乗員たちを歓待し、任務を完遂し疲れ切っていた彼らも、明日には中国に出発して帰国できると安心して眠りに落ちました。しかし、スパイストーリーのような冒険劇はここから始まります。
乗員は不法入国者か 最高指導者すら悩ませることに
4月18日の深夜、ヴォズドヴィデンカに秘密警察や国境警備などを統括するNKVD(エヌカーヴェーデー)の将校が駆けつけます。NKVDは乗員たちを不法入国者として拘束しようとしますが、基地のパイロットらは賓客扱いで歓待していたため、そこでひと悶着を起こしました。結局、モスクワからの命令により、乗員たちはソ連極東軍司令部のあったハバロフスクに送られます。
8番機の乗員。前列左から機長エドワード・J・ヨーク大尉、副操縦士ロバート・G・エマンズ少尉、後列左から爆撃航法士ノラン・A・ハーンドン少尉、機関士セオドール・H・ラバン軍曹、銃手デビッド・W・ポール軍曹(画像:アメリカ空軍博物館)
当時、ソ連の最高指導者であったスターリンはこの珍客に頭を悩ませます。同国はアメリカとは対ドイツ戦で同盟関係にあり、レンドリース法で物資の支援を受け始めたばかりでした。
一方、日本とは日ソ中立条約を結んでいるため、日本を空襲した爆撃隊を解放すれば2国間の関係が悪化します。三角関係のジレンマです。結果、ソ連は機体を接収し、乗員を拘束してアメリカへ形式的に抗議しますが、その一方で関係者すべての利益にかなう解決策を見出すよう努力し、その間乗員は快適な条件で滞在できると非公式に保証しました。
乗員たちは無聊(ぶりょう)の日々でした。シベリア全土からウラル山脈、ヴォルガ川のほとりまで、様々な都市や村をたらい回しにされ、生活に不便こそなかったものの、監視付きで自由というわけでもありませんでした。ストレスが溜まり続けたなか、ついにソ連軍将校まで巻き込んで脱走してしまいます。
1943(昭和18)年5月、ロシア語を少し話せるようになっていた乗員たちは、親交を深めたアレクサンドル・ヤキメンコというソ連軍少佐とともに密輸業者を雇い、ソ連邦内でも比較的警備の緩いトルクメニスタン共和国からイランへ越境し、同国にあるイギリス領事館に逃げ込もうと企みます。なお、密輸業者を雇う250ドルは乗員たちの自己負担でした。
脱走日は5月10日夜。彼らは密輸業者のトラックに乗り込み、闇夜に紛れて国境へ移動すると徒歩で鉄条網をくぐり抜けたのです。イラン側で別の密輸業者のトラックと落ち合うと、11日中にはイランのイギリス領事館へと到着。そして5月29日にアメリカ帰還も果たします。このとき、空母「ホーネット」を発進してから13か月が経過していました。
60年後、驚愕の事実が判明
乗員たちの執念と知恵による勇敢な脱出劇といいたいところですが、外国人との接触が厳しく制限されていたスターリン時代のソ連のハナシとしては、できすぎ感が否めません。8番機の銃手で最年少の20歳だったデビッド・W・ポール軍曹は、ソ連当局によって計画されたものではないかと、戦後すぐに違和感を話しています。
8番機が着陸したウラジオストックのボズドヴィシェンカ基地の現在。飛行機を保護する掩体も見られ、今もロシア空軍が使用している(画像:Google Earth)
その違和感は当たっていました。2004(平成16)年になってロシアのウラジーミル・ボヤルスキー退役少将が、当時の様子を以下のように回想したのです。
「肝心な点は、アメリカ人自身がソ連脱出の準備をしたと、彼らに信じさせることだった」
「月明かりの下、アメリカ人たちは周りを見回してひざまずき、ロシア人が作った鉄条網の下を這ってくぐった。その様子は実に見ものだった。我々は違法な国境突破の『現実』を巧みにつくり出した」
このボヤルスキー退役少将こそ、前出の「ヤキメンコ少佐」当人でした。当時ボヤルスキーはNKVD防諜局に所属しており、スターリン直々に、ソ連・アメリカ・日本の三者の体面を保つため、アメリカ人が自ら逃げ出したようにしてイランへ送り出すというミッションを任されていたのです。
“舞台装置”は大がかりでした。脱出を手引きした密輸業者など、関わった人物すべてがNKVDの要員で、国境の鉄条網も検問所も、トルクメニスタン内にわざわざ作られた大道具の偽物だったのです。当時、枢軸国寄りだったイランには1941(昭和16)年8月にソ連とイギリスが侵攻し、イラン北部はソ連軍が占領・駐留していました。舞台を用意することなど造作もないことであり、アメリカ、イギリス情報機関もひと口、噛んでいた可能性があります。
「我々の脱走は本物だった。脱走には我々の有り金ぜんぶが必要だった。我々が彼(ヤキメンコ)と別れるとき、彼は我々一人ひとりに熱烈にキスをした。目に涙が浮かんでいた」と、8番機副操縦士のロバート・G・エマンズ少尉は先のデビッド・W・ポール軍曹の違和感をきっぱり否定しており、脱出は本物だったと信じて疑いませんでした。NKVDの演出した“舞台”は、ソ連が事件発生時アメリカに約束した「関係者すべての利益にかなう解決策」として成功だったようです。
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