江戸終幕ミステリ― 新政府の「廃藩置県」に大名たちが大して抵抗しなかった理由とは
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江戸期ならではのダイナミズム
現在の東京の基礎を形づくっただけではなく、日本の社会に大きな影響を与えている江戸時代について、さまざまなことを教えてくれる本が大石慎三郎『江戸時代』(中公新書)です。
1977(昭和52)年に初版が発行されたもので、「新書」というには「古い」本かもしれませんが、今なお、私たちが持つ江戸時代のイメージを揺さぶってくれる内容となっています。

まず、江戸時代というと、織田信長や豊臣秀吉の頃に比べて「停滞」した時代だったというイメージがあるかもしれません。
しかし、少なくとも国内経済に関してはまったく違います。江戸時代の前半は、空前の「大開発時代」であり、河川に対する大規模な治水工事が行われ、今まで洪水によって耕作が不可能だった大河川の下流の平野が生産力豊かな水田地帯に生まれ変わりました。
それまで江戸湾に流れ込んでいた利根川を銚子方面に流す利根川の東遷(とうせん)事業をはじめ、北上川、常願寺川、木曽川、筑後川などで大規模な河川の改修が行われています。
平安中期(930年頃)に86万2000町歩だった耕地面積は、室町中期(1450年頃)になっても94万6000町歩に過ぎませんでした。ところが、江戸時代が始まる1600年頃には163万5000町歩、さらに江戸時代中期の1720年頃には297万町歩へと急激な伸びを見せています。
新田開発、洪水頻発、品種改良
それまで有力農民の土地を耕作していた下層農民たちも、新たに自分の土地を得て自立していくことになります。
さらに新田開発をしてもそこに入植する農民が不足するといった事態も起こり、尾州徳川家の尾張藩では「どのような重罪を犯した者でも、その罪を許してやるから」とのお触れまで出して入植者を集めようとしました。
しかし、急激な開発は国土の荒廃をもたらしました。行き過ぎた水田の造成や森林の伐採によって各地で洪水が頻発し、幕府は1666(寛文6)年に「諸国山川掟」を出して開発の抑制に乗り出します。
そこで農民たちは、いかに収穫量を上げるか、収入を増やすか、という努力をするようになります。
米の在庫が少なくなる収穫期直前に高く売るために次々と早稲の品種が開発され、農書が普及しさまざまな商品作物が栽培されるようになっていくのです。
こうした農業の発展とともに、江戸の街は発展し人口も増加しました。ただし、それとともにさまざまな問題も発生しました。
本書では、江戸の抱えたゴミ問題や交通問題がとり上げられていますが、後者に関しては現代と同じく、道端に停められた大八車が通行の妨げになる問題(駐車違反)や、大八車が引き起こす交通事故の問題などが紹介されています。
享保年間に生まれた画期的法令
特に、交通事故の問題に対処するために1716(享保元)年に出された法令は画期的なもので、それまでは故意ではないということで処罰の対象となっていなかった大八車などが引き起こす事故に対して、今後は処罰の対象とするとしたものでした。しかも、最低でも流罪、死罪もあり得るという重い処罰を科す方針を打ち出したのです。
このように江戸時代の経済発展は都市問題を生み出しましたが、同時に人びとのファッション熱も駆り立てました。
本書では「伊達比べ」と呼ばれる衣装比べが紹介されています。裕福な女性たちは絢爛(けんらん)豪華な着物を仕立てては、仲間内でその美しさを競い合ったのです。

1681(天和元)年には、浅草黒船町の町人石川六兵衛の妻が、5代将軍綱吉の行列に「伊達比べ」を仕掛け、不遜(ふそん)だとして六兵衛一家が闕所処分(けっしょしょぶん、財産没収のうえ追放)を受けています。
また、画家・尾形光琳の最大のパトロンでもあった銀座商人中村内蔵助の妻が、京都東山で行われた「伊達比べ」に際し、光琳の助言を入れて、侍女たちを花のごとく美しく着飾らせたうえで、自らは白無垢に黒羽二重の裲襠(うちかけ)を着て、なみいる伊達女を圧倒したというエピソードが紹介されています。
ちなみに、男女逆転の江戸時代を描き2021年2月に完結した漫画作品『大奥』(よしながふみ)では、第1巻で中臈(ちゅうろう)となった水野が、周囲が色とりどりの友禅を着る中で黒の裃を着て周囲の注目を集めるシーンがあります。おそらく、この中村内蔵助の妻のエピソードから着想を得ているのではないでしょうか?
幕藩体制が抱えていた矛盾
この「伊達比べ」は江戸時代の経済発展を示すものと言えますが、この経済発展は次第に幕藩体制に動揺をもたらすことになります。
幕府や各藩は農民から年貢として米を徴収し、それを売って、その他必要となるさまざまなものを購入していました。しかし、5代将軍綱吉の治世の終わり頃の18世紀初めあたりから、米の価格が安くなったのに他のものの価格は上がっていくという状況が出現したのです。
これは8代将軍吉宗の頃には「米価安の諸色高」という形で定着します。吉宗は「米将軍」とも呼ばれていますが、これは吉宗がなんとかして米の価格を上げようと四苦八苦したからです。
こうした幕藩体制の矛盾は、さまざまな改革にもかかわらず蓄積していき、ついには明治維新を迎えます。
明治維新はご存知のように、幕藩体制を解体し、天皇を中心とする中央集権的な政府をつくる大改革で、日本の歴史を振り返ってみても明治維新に匹敵するような改革はなかなかありません。
その一方で、これだけの大きな変革が短期間で成し遂げられた理由に関してはさまざまな説があります。
本書では、この問題に対して、そもそも大名などの領主階級がこれ以上の支配の継続を望んでいなかったという大胆な説を打ち出しています。
廃藩置県に各藩が抵抗しなかった理由
前に述べたように、18世紀になると幕府だけではなく諸藩も「米価安の諸色高」に苦しむことになり、藩財政は悪化していきます。各藩は年貢を担保にして金を借り、なんとかしてこれを乗り切ろうとしますが、「米価安の諸色高」は長期的な趨勢(すうせい)であり、藩財政が好転することはありませんでした。
大きな藩は専売制の導入などによって年貢以外の収入を確保しようとしますが、専売制を敷くほどの領地を持たない藩は返すあてのない借金を抱えていくことになったのです。
追い詰められた藩の中には「台所預かり」と呼ばれる事態に追い込まれたところもあります。本書では信州岩村田藩の事例が紹介されていますが、借金をどうしても返せなくなった岩村田藩の内藤氏は、松代の大商人に八田家に対し、藩財政についての権限の一切を八田家に任せる代わりに藩の面倒を見てくれるように頼み込みます。現代で言えば、さしずめ破産管財人といったところでしょう。
そして、この「台所預かり」は岩村田藩だけの特殊な事例ではなく、幕臣の旗本領などを含めて各所で見られました。
明治維新後の1871(明治4)年、新政府は廃藩置県を断行し、各藩の領地への支配権を完全にとり上げます。
このとき各藩が強い抵抗を見せなかった理由が、この各藩の抱えていた借金でした。明治政府は廃藩置県の代わりに各藩の借金を肩代わりしたのです。
「領主階級は維新改革の利得者」
旧藩主たちは版籍奉還に伴い旧領地の石高の10%を家禄として支給されることになっていました。江戸時代は石高の40%ほどの年貢を徴収し、そこから行政費や藩士への俸禄米を支給していたために、藩主の取り分は石高の10%もなかったと考えられます。
つまり、大名などの領主は、石高の10%の家禄を保証されたうえに、借金からも解放されたのです。
こうしたことから、「領主階級は維新変革による被害者ではなく利得者なのである」(242ページ)と書き記しています。

このように、本書は江戸時代について、私たちが知らなかったさまざまなことを教えてくれる本です。
江戸時代と東京を見る目を、さらに豊かにしてくれる本と言えるのではないでしょうか。
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