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なぜ沖縄だけ「アメリカ式道路交通」に変わった? GHQ占領下の東京・大阪が「戦前のまま」だったワケ 理由は “バス” ってホント!?

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  • 乗りものニュース
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太平洋戦争末期に激しい地上戦が行われた沖縄は、1945年から1978年7月末までアメリカと同じ右側通行でした。一方、戦後の日本本土は一時GHQ占領下にありましたが、左側通行のままでした。両地域の違いはどこにあったのでしょうか。

戦場となった沖縄は1972年まで右側通行

 太平洋戦争末期に熾烈な地上戦が繰り広げられた沖縄は、1945年の終戦から1972年7月末まで米軍統治下にあり、道路交通はアメリカと同じ右側通行となっていました。一方、日本本土は終戦後、1952年4月末まで約7年にわたってアメリカを主体とした連合国軍の統治下にありましたが、沖縄とは異なり、戦前と変わることなく左側通行が継続されています。

Large figure1 gallery81971年当時、沖縄に駐留していたアメリカ軍憲兵のパトカー(画像:沖縄県公文書館)。

 なぜ同じように占領・統治下にあったにもかかわらず道路交通で右と左の違いが生まれたのでしょうか。そこには、意外なことにバス路線の有無が大きく関係していました。

 今から80年前、沖縄は戦場でした。アメリカ軍の沖縄攻略作戦(通称アイスバーグ作戦)により、沖縄本島での戦いは1945年4月1日に始まります。この戦いにアメリカ軍は約55万人の兵力を投入。いっぽう迎え撃つ日本軍の兵力は約12万人で、そのうち3分の1は現地召集の補助兵力でした。

 両軍による組織的な戦闘は92日間にわたって続き、連合軍は2万人以上もの犠牲を払いつつ戦いに勝利、7月2日に戦闘終結を宣言しました。一方、敗れた日本側の犠牲はさらに大きく、死者・行方不明者は18万8136人に達し、そのうちの9万4000人が民間人でした。これは実に沖縄県民の4人に1人が亡くなったことになります。

 そして、それから6週間後の8月15日に日本政府はポツダム宣言を受諾して降伏。ここに太平洋戦争は終結を迎えました。しかし、連合国軍(事実上アメリカ)の占領下にあった沖縄は、終戦後もアメリカ軍の統治下に置かれ、日本本土の占領にあたったGHQ(連合国軍最高司令部)は1946年1月、南西諸島の北緯30度以北と以南で行政分離を行うと発表。これにより、沖縄にはアメリカ軍による恒久保持と基地開発の方針が打ち出されます。

 これを受け、1952年には軍政府に代わって琉球列島米国民政府(USCAR)による統治が始まり、沖縄の人々による自治機構である琉球政府がその下に置かれました。1957年にはUSCAR内に強大な権限を持つ琉球列島高等弁務官が置かれます。こうして、アメリカの統治体制は1972年5月15日の沖縄本土復帰まで続きました。

GHQ占領下でも左側通行を維持 なぜ右側通行にならなかった?

 日本の統治から切り離された沖縄では、本土とは異なり、アメリカ式にクルマは右、人は左の右側通行による対面交通に改められました。しかし、日本本土も1945年9月2日から1952年4月28日までの7年間はGHQの占領下に置かれていたにもかかわらず、戦前からの左側通行のまま変更されることもなく、現在に至っています。

Large figure2 gallery91961年の沖縄県の観光バス。左ハンドル仕様のバスは乗降口が車体右側となるため、左側通行に変わった場合、そのまま使うことは安全性の面で難しい(画像:沖縄県公文書館)。

 ここで疑問となるのが、当時のGHQは絶大な権力を持っていたにもかかわらず、なぜ日本政府に命じて日本本土の道路交通を右側通行に変更しなかったのか、という点です。実は、その秘密は公共交通である路線バスの存在が大きく影響していました。

 熾烈な地上戦が繰り広げられた沖縄本島は、戦災によって道路や鉄道が完全に破壊され、車両が消失したことによりバス事業も消滅しています。そうしたことから、アメリカは右側通行への移行が容易と判断したのでしょう。

 そして、沖縄の交通インフラが消失したことを憂慮した米軍政府は、1947年8月に左ハンドルの軍用トラック20台を改造し、これらを公営バスとして7路線の運行を開始。1950年4月1日には民営化によって沖縄バスが設立され、1951年までにガリオア資金(アメリカ政府による占領地域救済資金)により、日本からバス59台の輸入も行われています。

 なお、このとき導入された日本製のバスは、すべて左ハンドルの沖縄仕様車でした。その後、民間のバス事業者の参入が相次ぎますが、これら導入車両すべてが左ハンドル車でした。

 一方、日本本土は都市部こそ空襲により甚大な被害を被ったものの、沖縄本島とは違って交通インフラが完全に破壊されたわけではなく、鉄道やバス路線は健在でした。

本土復帰に伴い再び左側通行へ

 GHQでは沖縄と同様に、占領軍の車両が通行しやすいように日本本土も左側通行から右側通行へと変更することが検討されます。しかし、戦前から使われているバスが多数残る状況で強行すれば道路行政に混乱を及ぼしかねず、また戦争によって疲弊した日本の経済状況では、新規に大量のバスを調達することも、既存のバスの乗降口を車両の右側から左側に改造することもままならないと判断され、早々にこの案は諦められました。

Large figure3 gallery101972年4月の那覇市内。右側通行で、多くのクルマが行き交っているのがわかる(画像:沖縄県公文書館)。

 こうして、戦後しばらく日本本土は従来の左側通行、アメリカ占領下の沖縄は右側通行という状況が続きましたが、1972年に沖縄の本土復帰が実現すると、日本も加盟していたジュネーブ条約による「一国一交通制度」を遵守する立場から、日本政府は沖縄の右側通行を本土と同じ左側通行に変更する方針を固めます。

 当初、日本政府は本土復帰4年後の1976年に変更作業を実施することを検討しましたが、沖縄国際海洋博覧会の開催が優先されたことから延期され、1975年6月の閣議により、1978年7月30日をもって県内全域で左側通行に変えることが決まりました。

 変更作業は左側通行用の標識や信号機などを設置することから始まり、変更実施日から「730運動」と命名したうえで、広報活動などによって沖縄県民への周知徹底が図られました。

 そして、1978年7月29日22時から翌30日6時までの間、緊急車両を除く自動車の通行がすべて禁止され、この間に事前に設置されていた標識や信号機のカバーを取り、既存の標識や信号機を隠す作業を突貫で進めることで、わずか一夜にして道路交通が右から左に一斉に切り替えられたのです。なお、左側通行の変更直後こそ交通渋滞や事故が多発したものの、幸いにも死亡事故は発生することなく世紀の一大事業は幕を閉じています。

 ちなみに、戦後から沖縄の公共交通を支えてきた左ハンドルのバスですが、730運動への対応として右ハンドル車の新規導入と既存のバスの改造で対応しました。改修されなかった車両は海外へと輸出され、アメリカ占領下で活躍した沖縄のバスは現在では残っていないようです。

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