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家の所有権は借金肩代わりした弟へ 兄の欲望と焦燥が生んだ争続(下)

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家の所有権が弟にあることを知った兄は…
家の所有権が弟にあることを知った兄は…

 こうして、父親の生活は思いがけぬ形で町工場経営から年金暮らしへ変わったのですが、仕事人間だった父親は気落ちし、ただでさえ無口だったのにますます人と話さなくなり、自室から出てこなくなったそう。「あそこはつぶれたらしいよ」。周囲の人間がそんなうわさを立てているかと思うと、プライドの高い父親が外を出歩く気にならなかったのは、当然といえば当然です。

 人の目や耳、そして口を恐れるあまり、現実逃避を続け、空虚な日々。テレビをつけ、たばこを吸い、昼間からカップ酒を空ける日も。排せつや入浴、食事は辛うじて1人で行えるものの、心身共に次第に弱っていったそう。目に生気はなく、あばらが浮き出るほどやせ細り、茶わん一杯のご飯をたいらげることができないほど食も細くなったのです。

 そして、命日を迎えました。父親が風呂に入って1時間が経過しても出てこないので、「おかしい」と思った母親がドアを開けたところ、父親は全く身動きせず、湯船に浮かび、目を閉じていたのです。いわゆる、ヒートショック現象でした。急いで救急車を呼び、その場で救急隊員が蘇生処置を施したものの、一度止まった心臓が動き出すことはなく…病院に運ばれた末、医師が死亡診断を行い、この世を去ったのです。

「兄がもう少し用心深く見守ってくれていれば…」と育也さんは恨み節を口にします。

 話は戻りますが、育也さんは、妻が受け取った5万円入りの封筒が何なのかを聞き出すべく兄に電話をかけたそうです。

 育也さんは「5年前、兄さんがなんで何も言ってくれないんだろうと残念に思ったのは確かだよ。でも僕にとっては過去の出来事。今更、兄さんに何かしてほしいと思わないし、兄さんが僕に何かしてあげたいと思っているなら、気持ちだけで十分だよ」と5万円を返そうとしたのですが、残念ながら5万円は「兄の気持ち」ではありませんでした。

 兄は取引を持ち掛けてきたのです。「少しずつ返すから名義を戻してほしい」と。これはどういうことでしょうか。

 兄は5年間、実家の名義が父親から育也さんへ移ったことを知らなかったのですが、いざ父親が亡くなり、遺産の相続が始まるタイミングで登記簿を確認したのでしょうか。自宅の金庫に保管していた権利証をこっそりと見たのか、それとも法務局へ出向いて登記簿謄本を発行したのか…当然、自分のものになると思っていた実家の権利が弟にあることを初めて知り、居ても立ってもいられず育也さんの家を訪ねたのです。

 現在、弟名義の家に兄が住んでいる状況です。育也さんと兄の関係は可も不可もない、ごく普通の兄弟でした。特にプライベートの付き合いはないものの、最低限の親戚付き合い…盆や正月は実家で顔を合わせ、育也さんの一人息子(9歳)の出産や入園入学の節には祝い金をくれるので返礼品を返すという、ほそぼそとした関係は維持していました。

 兄は実家の権利を持っていないので、居住権が曖昧な状況で住んでいる状況です。もし、育也さんに「出て行ってほしい」と言われた場合、そのまま居座ることは難しく、退去せざるを得ません。「追い出されると困る!」と焦りに焦った結果行ったのが突然、現金を渡しに来るという所業だったようです。

 しかし、育也さんは兄を追い出すつもりはなく、育也さん名義のままでも兄が住むことを承諾するつもりだったので、心配は杞憂(きゆう)に終わった格好です。

 育也さんが立て替えた父親の借金は2000万円。兄が毎月5万円を返済し続けても34年かかるので気が遠くなります。兄は現在42歳、完済時は76歳なので、欠かさず返済できるのか疑問です。月5万円ずつ返済する代わりに所有権を譲渡するという兄の提案は、あまり現実的ではありません。

「名義をそのままにするなら、金で払え」

 そこで、育也さんは「名義のことは借金を返済するために仕方なかったんだ。もう終わったことだから(お金は)いいよ。別に兄さんに立ち退いてもらうつもりはないし、今まで通りでいいよ。5万円は一回忌のときに返せばいいかな」と大人の対応をし、事態は収束するかに思えたのですが、兄は引き下がらずに反撃してきたのです。

「そうか、お前の考えは分かった!! 名義をそのままにするんなら、その分、金で払えよな!!」

 兄は電話口で突然、語気を強めたのですがどういう意味なのでしょうか。

 父親は融資の返済に明け暮れたため、実家の土地、建物以外めぼしい財産はありません。残念ながら、父親の工場は法人成りしておらず、自営業なので退職金も存在しません。5年前の事件以降、年金だけを頼りに暮らしていたのですが、父親、母親はどちらも国民年金なので日々の生活で精いっぱい。年金の余りを貯金する余裕はありませんでした。

 父親の遺産を相続することが法律で認められているのは、母親、兄、育也さんです。父親はこれといった遺言をしなかったので、3人は法定相続の割合で遺産を分け合います。今回の場合、母親が2分の1、兄と育也さんが4分の1ずつ。一方で、どんな状況でも最低限手に入れることができる相続分を遺留分といいますが、今回、兄の遺留分は8分の1です。

 兄は、育也さんが余計なことをしたせいで自分が法定相続分を失ったと言っているのです。実家の土地、建物が父親名義のままなら、4分の1の権利を得ることができたというわけ。5年前の事件によって、兄が相続する財産はなくなってしまいましたが、それなら、遺留分の8分の1を現金で払えという主張です。言い分は本当に正しいのでしょうか。

 被相続人(父親)が生きているうちに、特定の相続人に財産を分け与えることを生前贈与といいます。確かに、実家の土地、建物は生前贈与に該当するでしょう。この場合、贈与されたのは生前ですが「相続した」と解釈します(平成10年3月24日、最高裁判決)。しかし、育也さんの法定相続分は全体の4分の1にすぎません。父親の財産は実家の土地、建物だけなので、明らかに「もらいすぎ」です。

 生前贈与によって遺留分を得ることができない状況になった場合、特定の相続人に対し、遺留分を金銭で支払うよう求めることが認められています(民法1046条、2019年7月に新設された遺留分侵害額請求権)。兄はこれらを踏まえた上で罵声を浴びせてきたのですが、育也さんは相応のお金を払わなければならないのでしょうか。

 育也さんは実家の土地、建物を無償でもらったわけではありません。2000万円の借金を返済することと引き換えに手に入れたのです。当時、実家の土地、建物の固定資産税評価額はわずか800万円でした。母屋は築40年、工場は築35年で、建物の価値は100万円以下。土地は300平方メートル以上ありますが、最寄り駅から車で35分もかかる辺ぴな片田舎。土地の評価額は700万円にすぎなかったそうです。

 つまり、育也さんは800万円の物件を2000万円で買い取った形になり、大赤字を強いられたのです。生前に贈与されたのは負の財産。仮に、借金が残ったまま父親が亡くなり、遺産相続が発生したら、兄は4分の1の所有権を得る代わりに、500万円の借金を押し付けられる結果になったでしょう。兄は生前贈与によって遺留分を失ったわけではなく、逆に借金を背負わずに済んだのだから、むしろ育也さんに感謝すべきなのです。

「兄さんは保証人でもないし、兄さんが僕に返済する必要はないし、僕も兄さんに請求するつもりはないよ。今の話は聞かなかったことにする。おふくろも気落ちしているから、あんまり波風を立てないでくれるかな? もちろん、これまで通り(実家に)住んでいていいから」

 育也さんは冷静を装い、電話口の兄を説得しにかかったのですが、兄は「5年前はお前が勝手にやったことだろ? 絶対に許さないからな!!」と捨てぜりふを吐くと、一方的に電話を切ってしまったそう。育也さんは翌月、実家を訪ねて母親に例の5万円を託し、「兄さんに渡しておいてくれ」と頼んだのですが…母親は「私も老い先が長くないから」と前置きした上で、衝撃の事実を耳打ちしてきたのです。

母から聞いた5年前の真相、融資金の使途は…

 育也さんはてっきり、兄が工場の跡継ぎで、“あの事件”が起こるまで父親と二人三脚で切り盛りしてきたのだと思い込んでいました。

 しかし、母親によると兄の正体は全く逆。工場の仕事はほとんど手伝わず、昼間は自室でパソコンの画面とにらめっこ。デイトレード、FX、そして仮想通貨。その時々のはやりものに手を出すのですが、すでに流行遅れのタイミングなので、もうけが出ないどころか損失のオンパレート。株式は値下がりで含み損を抱え、FXは信用取引で損失を拡大させ、揚げ句の果てには、仮想通貨の事業主が経営破綻し、通貨は紙ペラと化したのです。

 手持ちの資金を溶かした罪悪感を忘れたかったのか…午後4時30分のチャイムが鳴ると、駅前の飲み屋に繰り出し、浴びるほど酒を飲んで泥酔して帰宅する日々。

 毎晩の飲み代もカードローンでまかなうので借金返済のために借金をする…自転車操業を繰り返したのですが、少しでも返済しないとローンの枠が増えません。そのたびに兄は父親に泣きつき、金をせびり、遊ぶ金を入手するのですが、父親も資金が尽きてしまい…途中からは「運転資金」とうそをつき、信金から融資を受け、兄に渡すという繰り返しに。しかし、融資は打ち出の小鎚ではなく、自宅を担保に入れても限界があります。

 融資額が2000万円に達した時点で白旗を上げたというのが、5年前の真相だったのです。工場の売り上げは堅調だったので、兄の尻ぬぐいをしなければ、F1部品の製造を続けることができたはず。思いがけぬ形で兄の鬼畜のごとき悪行を聞かされ、育也さんは実家から自宅へ帰る車中、高鳴る胸の鼓動でめまいを起こし、震える手を押さえながら運転を続けたので、自宅までの記憶が飛んでしまったそうです。

 だからこそ、「父は兄に殺された」という言葉につながったのでしょう。

 ここまで、育也さんの苦悩を見てきましたが、いかがでしたか。育也さんは思いがけぬ形で遺産“争”続に巻き込まれたのですが、血のつながった兄に毅然(きぜん)とした態度を取ることは案外、難しいものです。人生で一度しか現れない他人ならともかく、親戚はずっと接点を持ち続けなければなりません。

 そのため、相手が強欲で傲慢(ごうまん)、自己中心的だということが分かっていながら、無理な要求を丸のみすることで世間体を保とうという人も一定数存在します。「金で済むなら安いものじゃないか」と。

 しかし、親戚関係を断ち切ることができないのなら「事なかれ主義」は危険です。相続は1回限りではなく何度も発生しますし、相続以外の場面でも、お金が底をついたら何回でも金の無心をしてくるからです。「言えば払う」というレッテルを貼られると、「他の親戚を巻き込みたくないのなら」と足元を見られ、そのたびに援助しなければなりません。

 先々の長い付き合いを考えると、育也さんのように一度おきゅうを据えておき、後顧の憂いを断つ方が賢明でしょう。

露木行政書士事務所代表 露木幸彦

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