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世界の歴史の中でも珍しい“完全勝利”日本海海戦はなにがそこまですごかった?

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  • 乗りものニュース
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国内では「日本海海戦」と呼ばれる戦いは、大国ロシアの海軍に、当時新興国であった日本が勝った――という意味で世界中に衝撃を与えました。また、この争いは列強各国の艦艇の運用方法に関しても大きな影響をもたらしています。

ヨーロッパから派遣されるバルチック艦隊の脅威

 1905年5月末、日本海対馬沖の海域でロシアの第2・第3太平洋艦隊(バルチック艦隊)と日本海軍の連合艦隊の戦いが行われました。日本では「日本海海戦」と呼称されるこの海戦は、海外主要国の立場から見ると、「大国ロシアの海軍に新興国・日本が勝つ」といったもので世界中に衝撃を与えています。それだけではなく、その後も列強各国の艦艇の運用方法に関しても大きな影響をもたらしました。

Large figure1 gallery2戦艦「三笠」画像は白黒写真を着色したもの(画像:パブリックドメイン)

 朝鮮半島や満州での利権をめぐる争いが発端となって1904年2月6日に始まった日露戦争は、機関銃や速射砲の本格投入により、両軍ともこれまでの戦いとは比較にならない人的損失と弾薬消費をしながら、旅順や奉天をめぐって、一進一退の激闘を繰り広げました。

 一方海域では、旅順を拠点としていたロシア太平洋艦隊は、積極的な戦術を打ってきませんでした。ヨーロッパを拠点にしているバルチック艦隊のうち、実に7割近い艦艇が第2・第3太平洋艦隊としてアジアに派遣されることが決まっていたからです。この艦隊がロシア極東の「ウラジオストク艦隊」と合流し、艦艇数で圧倒的に優位にたったあとに、日本海軍を圧迫し、あわよくば制海権を奪って、朝鮮半島への補給路の遮断を狙うのが勝利確度の高いプランだったのです。

 日本海軍にも、ロシア側の作戦内容は情報として伝わっていました。3つの艦隊がそろってしまったらさすがに勝ち目はありません。ですから、バルチック艦隊が到着する前に、何とか旅順艦隊だけは攻略する必要がありました。

バルチック艦隊到着前に旅順艦隊を行動不能に

 日本海軍にはまだ時間が残されていました。1904年10月にバルチック艦隊はリバウ(現:ラトビアのリエパーヤ)を出港したとはいえ、約3万3300kmの長い航海を行わなければならなかったからです。

Large figure2 gallery3記念艦として公開されている戦艦「三笠」(凪破真名撮影)

 その時間の猶予を利用し、日本は太平洋艦隊の排除を狙います。同艦隊は、日本陸軍が遼東半島に上陸したのを受け、ウラジオストクに撤退しようとしましたが、1904年9月4日に発生した黄海海戦で日本海軍が阻止に成功。撤退しようとした多くの艦艇を旅順に閉じ込めます。残った艦艇も旅順要塞を攻略し、そこから砲撃を加えることで壊滅させました。

 日本海軍が太平洋艦隊と戦っている際にも、バルチック艦隊は移動を続けていましたが、その際もイギリスの妨害による補給に問題や、第2太平洋艦隊の一部戦艦がスエズ運河を通過できなかった関係で、アフリカ大陸を大回りする喜望峰経由での航行になるなどのトラブルが発生し、かなり疲弊することになりました。

 ただ、バルチック艦隊側ががかなり体力的なダメージを負っていたとしても、日本の連合艦隊はかなりの不利でした。それはこのロシア艦隊の戦艦を複数撃ち漏らし、ウラジオストク艦隊と合流されでもすれば、日本の海上輸送網は危機に瀕するのは必至だったからです。日本海軍は、極東ロシアを目指す艦艇の撃滅が不可能の場合でも、ふたつの艦隊の合流を阻止するのが絶対条件という厳しい状況での海戦をする必要がありました。

 旅順が陥落した今、バルチック艦隊が、拠点となるウラジオストクを目指すのは明らかで、日本海軍は、その途中でなんとか艦隊を捕まえて、攻撃したいと考えていました。

 そこで艦隊発見後、すぐ攻撃態勢に移れるようにと、哨戒艦艇や監視所に無線電信機を設置し、さらに陸上の拠点と海底ケーブルでつなぐという通信ネットワークを構築しました。日本海側、太平洋側に同等のネットワークを開設、また津軽海峡には機雷軍を設置し封鎖。さらに台湾周辺海域にも漁船を装いつつ、監視を行う艦艇を複数配備して監視を強化、まさに「アリの子一匹逃がさないと」いう気概が感じられます。そのうえで主力艦隊は、一番通る可能性が高いと考えられた対馬海峡周辺で待ち伏せすることにしました。
 バルチック艦隊が拠点であるリバウを出港してから、およそ8か月後の1905年5月27日未明、哨戒中の信濃丸からの「敵艦隊ラシキモノ見ユ」との一報を受け、日本海軍連合艦隊は、すぐさま出動。対馬沖の海域で敵艦隊を発見し、旗艦「三笠」にはZ旗が掲げられました。この旗は「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」の意味となります。

 日本海軍の連合艦隊は、戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻、巡洋艦15隻を主力に、水雷艇なども含めると全108隻もの大艦隊でした。対するバルチック艦隊は戦艦8隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦6隻、そのほかの艦艇もあわせて全38隻となります。補助艦艇では日本は優勢でしたが、戦艦や装甲巡洋艦などの主力艦では劣っていました。さらに、前述したように、この数の艦隊に大打撃を与えるのが日本海軍の勝利する絶対条件でした。

世界の海戦の考えまで変えてしまった完全勝利

 この海戦で有名になったのが丁字戦法、いわゆる「東郷ターン」です。実は艦隊の主力艦全ての砲塔を一方向に集中できる丁字優位の法則は、同海戦以前にも知られていました。この海戦以前にも旅順艦隊相手に黄海で同様の戦法を試しましたが、優位な体制を取るための運動であると察知され、逃げられてしまい上手くいっていませんでした。

Large figure3 gallery1日本海海戦に挑む直前の連合艦隊(画像:パブリックドメイン)

 このときの失敗を活かした連合艦隊は、海戦が開始されてしばらくした午後2時5分、敵前の約8000mという至近距離で左回頭するという大胆な戦法に出たのです。

 急に回頭した戦艦「三笠」を先頭にした連合艦隊に向け、ロシア側も慌てて砲撃します。しかし、単縦陣のままだったため、上手く砲弾を集中することができず、ほどなく連合艦隊が、目前に壁になるように横一列に並ぶことになります。

火力を集中されないようにロシア艦艇は右回頭を始めますが。両者は6000mというこの時代の艦艇としては異例の至近距離での集中砲火に遭い、ものの30分もしないうちに、勝敗はほぼ決してしまいました。

ロシア艦艇から放たれる砲弾はなかなか当たらず、逆に日本艦艇から放たれた砲弾は次々に命中し、主力戦艦や巡洋艦を次々に沈没、航行不能にしていきました。

1時間も経過したことにはバルチック艦隊は統率を失って散り散りになり、砲撃戦は日没とともに終了しました。この海戦後、目的地のウラジオストク港にたどり着けたロシアの艦艇はわずかに巡洋艦1隻と駆逐艦2隻のみ。一方で、日本海軍の艦艇も損傷はあったものの、戦闘不能になった主力艦はゼロ。沈没したのは小型の水雷艇3隻のみ。敵艦隊が長旅で疲弊していたことを加味しても余りある、世界の海戦史上、殆ど例のない完全勝利で幕を閉じることになります。

 この海戦による敗北はロシア軍の戦意をくじき、アメリカの仲介もあったものの、日本との講和交渉にロシアが立つ一因を作り、戦争は終結に導きました。ロシアの支配に組み込まれた人々に大きなインパクトを与えると共に、世界の海軍の運用方法にも大きな影響を与えました。

 この海戦後、艦はさらに大型重武装化していき、巨艦同士のぶつかり合いでその戦争の雌雄を決する「大艦巨砲主義」に世界はより傾倒していくことになり、それは、第二次世界大戦の開戦後もしばらく続くことになります。

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