【南海トラフ地震】「臨時情報」発表は“空振り”じゃない 災害リスクの専門家が主張するワケ
- オトナンサー |
8月8日に日向灘でマグニチュード7.1の地震が発生し、政府は同日、「南海トラフ地震臨時情報」(巨大地震注意)を発表するとともに、特別な防災対応をするよう呼び掛けました。その後、大きな地震は発生せず、同月15日に防災対応の呼び掛けが終了しましたが、SNS上では「空振りだった」「科学的根拠はない」「経済的損失や混乱を招いた」など、批判的な声が多く上がりました。
事故防止や災害リスク軽減に関する心理的研究を行う、近畿大学生物理工学部・准教授の島崎敢さんは、8月の南海トラフ地震臨時情報の発表は、大規模災害に対する備えを再認識する上で良い機会になったと主張します。南海トラフ地震臨時情報のような、不確実な災害リスク情報との向き合い方について、島崎さんが解説します。
臨時情報の発表は「素振り」
南海トラフ地震臨時情報の発表後、観光地では宿泊のキャンセルが相次いだほか、地域によっては水や食料品の買いだめが起きるなど、社会に少なからぬ混乱が生じました。
そのため、ネット上では「空振りだったじゃないか」「科学的根拠はあるのか」「経済的損失や混乱をどうしてくれるんだ」「予算獲得のための誇張ではないのか」など、さまざまな批判の声が上がりました。
しかし、果たして今回の対応は本当に「空振り」だったのでしょうか。そして、私たちはこのような不確実な災害リスク情報と、どのように向き合えばよいのでしょうか。一連の騒動は、この重要な問いを改めて考える機会を与えてくれたのかもしれません。
まず、「空振り」という表現について考えてみましょう。野球で言う「空振り」は、ピッチャーが投げたボールをバッターが打てなかった状況を指します。しかし、今回の場合、そもそもボール(地震)は投げられていません。言葉通りの意味で考えるなら、本当の「空振り」とは「地震が来たけど、うまく対処できず被害が大きくなってしまうこと」だと言えます。
むしろ、今回の出来事は「素振り」と捉えるべきかもしれません。素振りは、本番に備えた練習です。今回の対応は、南海トラフ地震が実際に発生した際に備えて、社会全体で行った「素振り」だったと言えそうです。
素振りを重ねることで、実際の試合(災害)で「ヒット」を打つ(適切に対応する)確率が上がります。今回の経験を通じて、多くの人々が災害への備えの重要性を再認識し、具体的な行動計画を立てる機会になったのであれば「空振りをして損をした」のではなく「素振りをして強くなった」と捉えるべきなのかもしれません。
災害リスク情報は外れることもある
ここで、「リスク」という言葉の本質について改めて考えてみましょう。リスクとは、単に「危険」を意味するのではなく「不確実性」そのものを表しています。言い換えれば、何かが起こるかもしれないし、起こらないかもしれない状況のことです。
「絶対に起こらないこと」や「必ず起こること」はリスクではありません。0と1の間のどこかにあるのがリスクです。だから、リスク情報は、本質的に「外れるかもしれない」ものなのです。
この視点に立つと、リスク情報が「正しくなかった」とか「科学的根拠がない」などと批判することは、少し的外れかもしれません。私たち情報の受け手は、このようなリスク情報の本質をよく理解する必要があります。
ところで皆さんは、もし家族や大事な人が「100回に1回、墜落する飛行機に乗る」と言ったらどうしますか。恐らく、多くの人は「危ないから乗らない方が良い」と助言するのではないでしょうか。
墜落のように重大な結果が1%の確率で起きるというのは、大部分の人が許容できるリスクの範囲を超えています。実際、現代の航空機は100万回のフライトに1回以下という極めて低い確率でしか墜落しないといわれています。だからこそ、私たちは安心して飛行機に乗ることができるのです。
しかし、こんなに危ない飛行機でも99%は墜落せずに無事にフライトを終えるのです。家族や大事な人も無事に帰ってきて「ほら大丈夫だったじゃないか」と言うかもしれません。しかし、あなたは次もきっと「危ないから乗らない方が良い」と言うはずです。
では、地震や洪水、土砂災害などの自然災害のリスクはどうでしょうか。例えば、その場にとどまったら1%の確率で津波や洪水、土砂崩れに巻き込まれるのであれば、それはかなり危険な状況です。だから警告を伝える側は「危ないよ」と言わざるを得ません。
この場合も99%は何事も起きないわけですが、それに対して「空振りだったじゃないか、どうしてくれるんだ」と言うべきでしょうか。致命的なことが起きる確率が50%や99%になるまで警告を待つべきでしょうか。
実は8月の「南海トラフ地震臨時情報」は、事前に決められた基準に基づいて、ほぼ機械的に発表されています。もちろん、確認作業や多少の議論はありましたが、「南海トラフ地震の震源域でマグニチュード7以上の地震が発生した場合」は発表するという基準が事前に決められており、この基準に従って発表が行われたのです。
このようなやり方は、他の多くの防災情報の発信でも採用されている方法です。なぜなら、不確実性のあるリスク情報を発信する人は、常に「発信したが何も起きなかった」と「発信が遅れて被害が大きくなってしまった」という相反する状況のジレンマに悩まされているからです。
そして、いずれも社会から強い批判を受けるため、大きなプレッシャーにさらされていています。そこで採用されているのが、事前に決められた客観的な基準に基づいて情報を発信する方法です。これにより、個々の判断者への過度なプレッシャーを軽減し、一貫性のある情報発信を可能にしているのです。
警告を繰り返し聞くと軽視するように?
ここで、昔話の「狼少年」を思い出してみましょう。この物語は一般的には「うそをつくと信用されなくなる」という教訓の話だと考えられています。
しかし、災害リスク情報の文脈では、別の解釈ができるのではないでしょうか。つまり、「繰り返し警告を聞いても実際には何も起きないと、人々は警告を軽視するようになる」という教訓です。
もちろん、うそを連発して少年のように信用されなくなるのは困りますが、この物語の村人のように警告を軽視するようになることも、同じくらい困ったことです。この物語は、リスク情報を発信する側と受け取る側、双方への警鐘なのかもしれません。
日本は世界有数の災害大国ですが、同時に世界最先端の防災システムを持っている国でもあります。現時点で人間社会の時間軸で役に立つ精度の地震の予測はできていませんが、気象現象や火山活動などはかなりの精度で予測できるようになってきています。そしてこれらの情報はさまざまな手段で迅速に国民に届けられます。
もちろんリスク情報なので100%正確にはなり得ませんが、研究者はその精度を少しでも高めるように、現在考え得る最先端の技術を駆使して正確な情報を出そうと努力していますし、行政職員はデジタルからアナログまであらゆる情報チャンネルを通じて、少しでも多くの人に防災情報を届けようと努力しています。そしてこの努力の根幹にあるのは、1人でも多くの国民を災害の脅威から守りたいという願いです。
私たちは、世界的に見れば極めて恵まれた日本の防災システムの価値を正しく認識し、感謝の気持ちを持って情報を受け止める必要があります。
こういった情報を安易に批判することは、日々、人知れず安全のために努力をする人たちに不要なプレッシャーをかけ、努力へのモチベーションを下げ、判断を誤らせる可能性がある行為だということを意識する必要があります。
繰り返しになりますが、災害リスク情報は、本質的に不確実性を含む情報なので、どれだけ科学技術が進んでも、100%的中するということはありません。
しかし、それは情報の価値がないということではありません。こういった情報は私たちを100%助けてくれるわけではありませんが、適切に利用することで、より確からしい判断を助け、生存確率を高めてくれるのです。だから私たち一人一人が、白でも黒でもない、グレーな不確実性の情報との付き合い方を学ぶ必要があるのです。
今後も「災害リスク情報が発信されたが、何も起きなかった」ということは繰り返しあるはずです。そういう状況に出会ったときには「自分の身を守るための素振りのチャンスだった」と捉えてみてください。この素振りの積み重ねが、私たちの社会を災害に強い社会に変えていくのです。
近畿大学生物理工学部准教授 島崎敢
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