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イタリアのデカすぎ重戦車「フィアット2000」第1次大戦は間に合わなかったけど100年後に復活!?

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  • 乗りものニュース
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第1次大戦中のイタリアはあまり知られていないものの、実は意外と早い時期に戦車の開発を始めていました。完成した独自戦車は、新機軸も盛り込んだ意欲作でしたが、歴史の狭間に埋没。ただ、技術遺産として21世紀に復活を遂げています。

時代の最先端を行っていたイタリアの戦車開発

 1915(大正4)年5月から第1次世界大戦に参戦したイタリアは、敵のオーストリア・ハンガリー二重帝国との国境での山岳戦や塹壕戦を3年半に渡って繰り広げました。その間に軍用自動車や装甲車、飛行機の進歩と活用はイタリア軍においても目覚ましかったものの、西部戦線で見られた戦車の使用は最後までありませんでした。

 しかし実際は密かに戦車の開発も進めていたのです。世界初のイギリス製Mk.I戦車が、フランス北部ソンムの戦場に登場する1か月前の1916(大正5)年8月に、イタリア軍は国内自動車メーカーのフィアット社に依頼します。まだ海の物とも山の物ともわからない戦車の開発を担ったのが、カルロ・カヴァッリとジュリオ・チェザーレ・カッパの設計チーム。カッパ技士は優秀な自動車設計者で、フィアット社の航空エンジンや大戦後のレーシングカー設計も手掛けています。

Large 211214 fiat2000 011918年に製造された2両目のフィアット2000戦車。初期の試作車と異なり、65mm歩兵砲を搭載した砲塔は密閉式の半球形状。また各部に6.5mm水冷式機関銃7挺を装備し、さながら重武装の移動式要塞のよう(吉川和篤所蔵)。

 軍の命令により召集されたフィアット社の開発チームは、イギリスMk.I戦車のひな型となった「リトル・ウィリー」戦車の報道写真などを取り寄せて、見よう見まねで戦車研究を始めました。フランス初のシュナイダーCA.1戦車なども参考に開発が進められ、1917(大正6)年6月には最初の試作車両がイタリア陸軍に提出されています。

 このイタリア初のオリジナル戦車は、参考にしたフランスのシュナイダー戦車が、全長6.3m、全高2.3mだったのと比べると遥かに大きく、そのサイズは全長7.4m、全高3.8mもあり、小山のような巨体で、まさしく移動する要塞または陸上戦艦といった印象でした。なお当初、この試作車両は「モデッロ17」(型)と呼ばれます。

新機軸を盛り込んだ斬新な設計

「モデッロ17」は、後部の機関室にカッパ技士が設計した飛行機用の水冷エンジン(250馬力)を搭載しており、ドライブシャフトを用いて変速機経由で前部の起動輪に動力が伝えられる構造を採っていました。

 この、いわゆる前輪駆動方式は、その後の戦車において一般的なレイアウトになりましたが、創成期の戦車では珍しい方式でした。イギリスのMk.I戦車は操縦だけで4人の乗員が必要であったのに対して、「モデッロ17」試作戦車ならひとりで操縦が可能というメリットも有していたのです。

 また足回りは転輪を板バネで懸架する方式で、サスペンションなどなかったイギリスのMk.I戦車と比べて、はるかに走行時の乗り心地も良いものでした。

 さらに特筆すべきは、戦闘室上部に搭載された全周旋回式の砲塔です。これもその後の戦車では当たり前となる装備ですが、時代を先取りした先進的なものでした。当初は円錐台で上が開いたオープントップ形式でしたが、世界で最も早い近代戦車のレイアウトを持つとされるフランスのルノーFT17軽戦車の試作完成が1917(大正6)年2月なので、4か月ほど遅いものの、設計的には最先端をいくものだったといえるでしょう。

Large 211214 fiat2000 021920年代前半、創成期のイタリア戦車部隊が所有した各戦車。左から国産のフィアット3000軽戦車、フランス製ルノーFT17軽戦車とシュナイダーCA.1戦車、そしてひときわ巨大なフィアット2000戦車(吉川和篤所蔵)。

 イタリア陸軍とフィアットは、後にこの「モデッロ17」の弱点を見直して改修、17口径65mm歩兵砲を搭載した砲塔を密閉式の半球型に変更したうえ、左右側面の銃眼穴を装甲で覆い、後部には銃座を追加しています。なお、この改修で試作車両は6.5mm水冷式機関銃を全部で7挺装備するようになりました。こうして改良された試作1号車は「フィアット2000」戦車として制式化され、翌年にはもう1両が完成しています。

 しかし、もともと大柄な車体設計に加えて度重なる改修で重量は40t近くなり、結果的にフィアット2000は、第1次世界大戦期に開発された実用戦車としては最も重い戦車となりました。さらに機関銃の数も増えて搭乗員の数もイギリスMk.I戦車より2名多い10名となり、実用速度は7km/h以下になっています。

消えた2両&現代に蘇った1両

 こうして完成したフィアット2000戦車でしたが、その設計思想はイギリスMk.IV菱形戦車やドイツA7V戦車と同様に、塹壕突破を目的とした初期の陸上戦艦タイプの戦車であったため、山岳地形の多いイタリア北部国境周辺の戦闘では不利な車両でした。

 そのためイタリア軍は、フランスからシュナイダーCA.1戦車やルノーFT17軽戦車の部品を輸入して国内で組み立てる計画を立てます。しかし、それも計画通りに進まず、遅れていくうちに第1次世界大戦は1918(大正7)年10月に終結。大戦が終わったことでイタリア軍は陸上戦艦のようなフィアット2000戦車への興味を急速に失っていきました。

 それでも国内初の戦車部隊の運用を模索していたイタリア軍は、1918(大正7)年にトリノの第1独立突撃自動車隊に2両の試作戦車を配備します。さらに翌1919(大正8)年には3両のルノーFT17軽戦車と1両のフィアット2000戦車が北アフリカのリビアに送られて、自動車隊としてミスラタ地区での対ゲリラ戦に投入されたほか、1両が研究用としてローマに残されました。

 しかし、リビアでの対ゲリラ戦に投入された1両は、最高速度が7km/h以下のため戦力不足と見なされて、2か月後には前線から引上げられてしまいました。ただ、同車は1934(昭和9)年まで北アフリカのベンガジで移動砲台として配備されていたことが確認されています。

Large 211214 fiat2000 03ダークグリーン単色に塗られたフィアット2000戦車の左側面。敵の侵入を防ぐために高い位置に取付けられた出入口扉だが、当初は右側面の下側に設置されていた(吉川和篤作画)。

 なお、国内に残った1両は、車体四隅の6.5mm機関銃を40口径37mm戦車砲に載せ換えて、1936(昭和11)年ごろまで軍事パレードや戦車部隊の教育用に使用されましたが、その後は忘れ去られていき、イタリアはP.40戦車まで20年以上、重戦車の開発を行いませんでした。

 こうして歴史のかなたに埋没していたかに見えたフィアット2000戦車ですが、21世紀に入ってから再び脚光を浴びるようになります。

 契機は第1次世界大戦の終結100周年記念の前頃から。フィアット2000戦車について、当時としては新機軸を盛り込んだ設計であったとイタリア国内で再評価されるようになったのです。

 これにより、開発当時に製作された縮小サイズの木製モックアップ模型が各地で展示されて募金も行われ、2020年11月にはエンジン付きの原寸レプリカがイタリア北部ヴィチェンツア州で完成。時代に間に合わなかった陸上戦艦は、イタリア工業力の象徴として再び祖国の大地を走ったのでした。

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