「孤独の女王」独戦艦「ティルピッツ」は役に立ったのか? 欧州北方鉄壁の引きこもり
- 乗りものニュース |

「砲艦外交」という言葉があるように、「戦艦」の役割のひとつはその存在感を誇示することです。WW2期、スカンジナビア半島北端のフィヨルドに引きこもりつつイギリスをいら立たせた独戦艦「ティルピッツ」も、その例に洩れません。
ふたつ名「北の孤独の女王」の真意は…?
戦艦「ティルピッツ」は、第2次世界大戦期のドイツで建造されたビスマルク級戦艦の二番艦で、ドイツでは最大の水上艦であり、当時の最新技術の粋を集めて建造されました。ヒトラーもお気に入りで、同級一番艦「ビスマルク」は「鉄の聖堂」と、二番艦「ティルピッツ」は「北の孤独の女王」と称されました。それぞれなにやらロマンを感じさせる呼び名ですが、両艦は全く違う運命をたどることになります。
就役間もない1941年3月に撮影されたとされる試験中の「ティルピッツ」(画像:アメリカ海軍)。
ヨーロッパで戦端が開かれた1939(昭和14)年6月1日の段階で、ドイツ海軍はまったく準備不足でした。1935(昭和10)年3月16日、ヒトラーがヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄しドイツ海軍は再軍備にあたってZ計画を立案しますが、イギリス、フランスと対抗できるような大艦隊建設の完成は1945(昭和20)年という気長なスケジュールでした。Z計画はほとんど進捗していない状態で、世界に冠たるイギリス海軍と対峙しなければならなかったのです。
戦力が整っていなかったドイツ海軍は、通商破壊戦(商船を攻撃することで、物資輸送を妨害すること)を主作戦とせざるを得ませんでしたが、ビスマルク級戦艦は航続距離のスペックを見ても、大西洋を動き回って神出鬼没の通商破壊戦をするには不向きでした。
1941年4月1日の「ティルピッツ」進水式の様子。まだ甲板上はほとんど艤装されていない(画像:ドイツ連邦公文書館)。
そして、「ビスマルク」の運命は太く短いものでした。1940(昭和15)年8月24日に就役しますが、1941(昭和16)年5月27日にイギリス海軍との死闘を経て撃沈されます。わずか9か月という短命でした。二番艦「ティルピッツ」が就役した1941(昭和16)年2月25日のわずか3か月後のことです。「鉄の聖堂」亡失は緒戦の勝利に浮かれていたドイツに冷水を浴びせます。
「ビスマルク」沈む! 「ティルピッツ」は…引きこもる!
「ビスマルク」のロスショックからヒトラーは、大型艦の大西洋への出動を禁止します。「北の孤独の女王」とは、「ティルピッツ」がノルウェーの狭隘なフィヨルドに引きこもったことを揶揄したものでした。海軍が艦を保全しようとするのは本能的な行動パターンで、戦局が不利になると根拠地に引きこもって出てこなくなる例はよく見られます。とはいえこれは、一概に無駄な遊兵化ともいい切れません。
「ティルピッツ」はこうして、ソ連に向かう連合軍輸送船団を攻撃し、イギリス海軍を引き付け、連合軍のノルウェー侵攻を抑止することが任務とされます。
ノルウェー北部のアルタフィヨルドで1943年から1944年のあいだに撮影された「ティルピッツ」。迷彩塗装が施され魚雷防護ネットが貼られている(画像:アメリカ海軍)。
この引きこもり行動は、イギリスのチャーチル首相をいら立たせます。基準排水量4万2900トン、38cm(48.5口径)連装砲塔4基を主武装とする「女王」は、引きこもっていたとしても脅威であることには変わりありません。実際に輸送船団へちょっかいを出したり、連合軍基地を艦砲射撃したりしたので、放置しておくわけにもいきませんでした。
「ティルピッツ」から撮影された独艦隊。中央に重巡洋艦「アドミラル・ヒッパー」、その後方3隻目が重巡洋艦「アドミラル・シェーア」(画像:アメリカ海軍)。
「ティルピッツ」は、戦局が悪化してくると燃料不足もあって訓練さえままならず、ノルウェー最北に位置する旧フィンマルク県(現トロムス・オ・フィンマルク県)のアルタ郊外にあるコーフィヨルドに腰を落ち着けるようになります。
フィヨルド内にて植生でカモフラージュされた「ティルピッツ」(画像:アメリカ海軍)。
周辺から植生を移植して偽装し、沿岸には対空陣地を配置し、戦闘飛行隊の飛行場が作られ、煙幕発生器も設置されます。対魚雷網を二重に張り巡らし、転覆を防ぐため艦の下と周辺に大きな砂場も建設されるなど、まさに鉄壁の引きこもり体制でした。
「ティルピッツ」後甲板上で開催されたダンサーを招いての慰問コンサート。38cm主砲もカモフラージュの架台になっている(画像:アメリカ海軍)。
乗員定数は2600名のところ、1600名まで減らされていましたが、生活は点検と掃除、たまに訓練、もっとたまに対空、対潜戦闘と非常に単調だったとされ、戦争中の戦艦とは思えないリラックスした写真も残されています。日本海軍には「ヤマトホテル」「武蔵屋旅館」がありましたが、「ホテル・ティルピッツ」と呼ばれていたかはわかりません。そのころドイツ海軍のUボートは、大西洋で通商破壊戦の死闘を繰り広げていました。
「北の孤独の女王」の最期
1942(昭和17)年1月28日以降、イギリス軍の空襲や小型潜水艇による「ティルピッツ」への攻撃は、1944(昭和19)年11月12日の撃沈まで20回におよびます。フィヨルドという狭隘な地形と厳しい天候、鉄壁防護体制により攻撃は困難で、それなりに損害を与えるもののなかなか撃沈には至りませんでした。
1944年4月3日イギリスの空母「ヴィクトリアス」「フューリアス」の艦載機による空襲で命中弾を受けた「ティルピッツ」(画像:ドイツ連邦公文書館)。
1944(昭和19)年9月15日、イギリス空軍の「ランカスター」爆撃機が投下した5t爆弾「トールボーイ」1発が命中し、「ティルピッツ」は大きく損傷します。10月に旧トロムス県(現トロムス・オ・フィンマルク県)のトロムソへ移動、市西方に位置するハーコイ島の南岸に着底して砲台とする作業中の11月12日、再度「ランカスター」爆撃機隊の空襲を受けます。トールボーイ29発が投下され、「ティルピッツ」も38cm主砲の対空射撃で反撃しますが、トールボーイ2発が命中、1発が至近弾となり大破横転しそのまま沈没着底してしまいました。多くの乗組員が艦内に閉じこめられ、950人から1204人が犠牲になったとされます。
イギリス空軍偵察機が撮影した「ティルピッツ」。沿岸から煙幕が展開されている様子が分かる(画像:帝国戦争博物館/IWM)。
「ティルピッツ」は「ビスマルク」と比べても華々しい戦闘シーンはありませんが、連合軍の関心を引きつけるという期待された任務は達成したと、評価する向きもあります。しかし建造、運用コストに見合うものだったのかは分かりません。なによりドイツは結局、敗戦しています。最後に多くの犠牲者を出してしまったのも痛恨でした。
終戦後に撮影された転覆して艦底をさらす「ティルピッツ」。スクリューが脱落している(画像:帝国戦争博物館/IWM)。
大破着底した「ティルピッツ」は、第2次世界大戦が終わるまで艦底を晒したまま放置され、1948(昭和23)年から1957(昭和32)年にかけて、ドイツとノルウェーの合弁会社によって浮揚・解体されます。長く「ティルピッツ」が停泊していたアルタには2021年現在、ティルピッツ博物館があります。
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