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総武線はなぜ「へ」の字なのか? 却下された「幻の直線ルート」 線路曲げたらなぜか“OK”に!?

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  • 乗りものニュース
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JR総武本線は、亀戸~船橋間で「へ」の字を書くように大きく北へ迂回しています。当初は、市川へ遠回りせずに直線で結ぶ構想でしたが、明治時代の世相が「渡りに舟」となり、現在の線形に落ち着きました。どのような経緯だったのでしょうか。

立ち塞がる「舟運」という名の既得権益

 東京と千葉を結ぶJR総武本線は、なぜか亀戸~船橋間で大きく北へ迂回しています。地図を見ると、東京都江戸川区の小岩駅を頂点に、不自然に「へ」の字型に曲がっているのが気になります。

Large figure1 gallery5JR総武線快速(画像:PIXTA)

 仮に亀戸~船橋間を直線で結ぶと、長さは約14.5kmで、2.5kmほど短くなります。今の京葉道路(国道14号)とほぼ同じルートです。建設費や列車の所要時間を考えると直線が断然有利ですが、なぜ「へ」の字ルートを描くようになったのでしょうか。

 総武本線が開通した明治中期の直線ルート周辺は、見渡す限り水田地帯で、山や谷もなく人家もまばらで、鉄道敷設には最適です。一方、現在の「へ」の字ルートは、並行して千葉街道(こちらも国道14号)が通り、市街地が存在します。

 当時の鉄道敷設の主目的は、銚子の醤油や海産物など千葉県北部の物産を、帝都東京に貨物で高速大量輸送することでした。そのため、沿線住民による旅客運賃収入は、あまり期待していなかったようです。

 そうなると、当時「最速」を謳い文句に誕生したベンチャーの鉄道は、東京まで最短距離で結び時間短縮を目指す方が得策です。

 この謎の「へ」の字には、どうやら舟運(水運)の横車ならぬ“横舟”と、日本陸軍の「渡りに舟」が絡むようです。

 総武本線は、1897(明治30)年に本所(現・錦糸町)~銚子間約116kmが全線開通しました(7年後に両国まで延伸)。総武本線の前身は総武鉄道という私鉄ですが、そのルーツは、ともに1887(明治20)年に旗揚げした「総州鉄道」と「武総鉄道」の2社です。

 うち、武総鉄道の創設者は伊能権之丞(ごんのじょう)。祖先は精緻な全国地図を初めて作った、あの伊能忠敬です。

真っすぐルートは「不許可」 への字にしたら“あっさりOK!?”

 総州鉄道が設立時に作った予定路線図「千葉県鉄道敷設意見書」では、銚子~佐倉~千葉~船橋~東京(両国橋)のルートが描かれ、今の総武本線のたたき台になっています。注目は、船橋~両国橋間を一直線でつないでおり、特に行徳(現・千葉県市川市)の隣の集落・河原(同)を経由地とする点です。

 ところが、監督官庁の工部省鉄道局に提出した正式書類では、この部分が「へ」の字に変更されました。当時、物流の主役だった舟運(水運)の業界が、猛烈に反対したのが大きな原因のようです。

 利根川や江戸川を使った舟運は、物産を江戸に運ぶ一大物輸送手段で、江戸時代以前から重要視されていました。

 前出の河原の西隣には江戸川沿いの集落・行徳があり、「行徳(祭礼)河岸」という河港も備えた、舟運の一大拠点でした。

 特にこの河岸と、新川(江戸川区)、小名木川(江東区)を経由し日本橋小網町(中央区。こちらも「行徳河岸」と呼ぶ)とを結ぶ舟は「行徳船」と呼ばれ、成田詣での観光客や、近郊野菜、醤油、行徳の塩田で造られる塩の輸送に大忙しでした。

 既得権者の舟運業者たちは、仕事を陸蒸気(鉄道)に奪われると猛反対したのです。

 一方、武総鉄道の予定ルートは、佐原~成田~佐倉~千葉~船橋~東京(本所・緑。両国と錦糸町の中間)で、佐倉~東京間は総州鉄道とほぼ一緒です。

 注目はやはり船橋~東京間の経路でした。千葉駅を出発し、本八幡駅辺りまでは今の総武線とほぼ同じですが、この辺りから西に折れ、江戸川を渡って、千葉街道(国道14号)のさらに南側を通り、亀戸駅付近に至る計画でした。

 2社は1887年にそれぞれ鉄道局に申請しますが、不許可となります。

 理由の一つは、両社の路線の大半が重複し、共倒れの危険性が高いため。そしてもう一つは、やはり当時政府も舟運を物流の要(かなめ)として保護したからです。

 実際この時は、利根川と江戸川を短絡する利根運河(千葉県流山市近辺)の開削工事が始まる直前でした(1890年完成)。政府肝煎りの一大計画である運河の完成で、舟運はさらに便利になる、と政府はアピールもしていました。

日本陸軍が「渡りに舟」の強い味方に

 総州鉄道と武総鉄道は一旦解散しますが、それぞれの主要メンバーらは合流し、1889(明治22)年に改めて「総武鉄道」を旗揚げします。

Large figure2 gallery6「へ」の頂点に近いJR小岩駅前(深川孝行撮影)

 そして鉄道局に提出した路線図は、現在の総武本線とほぼ同じの銚子~本所(JR両国駅)ですが、今度は不思議なほどスムーズに許可が下ります。実際、早くも同年4月に佐倉~八街間に仮免許が、そして同年12月には、小岩~佐倉間に本免許が授与されています。

「スピード認可」の背景には、日本陸軍の“無言の威圧”があったようです。

 明治維新後、国防と治安維持の強化を急ぐ政府は、帝都防衛のために、陸軍精鋭の歩兵第二連隊を、東京に近い佐倉に置きます。

 一方、陸軍は、文明の利器「鉄道」が軍隊の迅速移動や軍需輸送で威力を発揮すると理解していました。

 実際、1861~65年のアメリカ南北戦争や、1870~71年の普仏戦争での鉄道の活躍を研究しています。また、1878(明治10)年の西南戦争では、開通したての新橋~横浜間、大阪~神戸間の官営(国営)鉄道をフル活用し、大部隊を数日で九州に送っています。

 陸軍にとっては、有事の際にいち早く大部隊を帝都に送り、防備を固めるのが最重要任務です。

 佐倉と東京を結ぶ鉄道、つまり総武鉄道の早期開通は、国家戦略上の意味もありました。陸軍の威光を背景に総武鉄道が申請すれば、さすがの鉄道局も首を縦に振らざるを得なかったようです。

 また、「へ」の字のルート変更は、陸軍の要望でもあったようです。

 市川駅北部の国府台一帯に、陸軍の下士官(幹部)を養成する教育機関「教導団」や、陸軍病院を移転したため、交通の便を良くするため、近くに鉄道駅を必要としていました。

 その後鉄道は隆盛を極め、舟運は衰退の一途をたどりますが、「へ」の字により鉄道アクセスの恩恵から遠のいた行徳や、さらに先の浦安は長年にわたり、「陸の孤島」と呼ばれてしまいます。

 実際、小説『青べか物語』で、著者の山本周五郎が舞台の浦安を冒頭で「町は孤立していた」とたとえたほどです。

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