「騎兵って…どんなの?」花形の兵科の知識が260年間欠けていた日本 いるのは「馬の形をした猛獣」ばかり!? 試行錯誤の歴史とは
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重要な“兵器”の運用法が全然確立していなかった!
今年の干支である午(ウマ:馬)は、有史以前から人類のパートナーであり、乗り物としても利用されてきました。また、戦闘においても馬は長いあいだ使用されてきました。むしろ、現在のように戦力の中核として使われなくなったのは20世紀初頭からで、それまでは長きにわたり重要な戦力とされていました。とはいえ、有史以来の馬の歴史を解説しているときりがありませんので、ここでは近代的な軍用馬(軍馬)、とくに騎兵用の馬にスポットを当て、日本ではどのような形で運用されていたのかを紹介します。
奉天の戦いで日本軍の攻撃により退却するロシア軍(画像:パブリックドメイン)
最初に、日本に近代的な騎兵用の馬が導入されたのは幕末だといわれています。江戸幕府はフランス陸軍を参考としていたため、軍事指導にあたっていたフランスからアラブ種の馬が寄贈されました。当時の幕府陸軍には騎兵隊も編成されていましたが、こうしたフランスから輸入された軍馬がどの程度存在していたのかは明らかになっていません。記録として確認できるものとしては、当時のフランス皇帝ナポレオン三世が第14代将軍・徳川家茂に贈ったアラブ馬の記録などが残る程度で、日本国内の軍馬改良に与えた影響は、それほど大きなものではなかったと考えられます。
日本が本格的に軍馬の生産に注目するようになったのは、明治に入ってからです。軍馬の種類は大きく分けて、将校や騎兵が使用する「乗馬」、大砲や弾薬を牽引する「輓馬(ばんば)」、食料や荷物を背負って輸送する「駄馬」などがあります。このなかで最も深刻だったのは、騎兵に使用する乗馬でした。江戸時代に入ってから馬の改良がほぼ停止していたこともあり、日本の騎兵は自他ともに、他国と比べてかなり貧弱であると評価されていました。
また、軍馬に関する理解不足も質の低下に大きく影響していました。明治初期に日本を訪れた欧州の駐在武官は、「日本人は馬の形をした猛獣に乗っている」と評しています。これは、牡馬を去勢せずに使用していたためです。他国では、気性が穏やかになることから去勢した馬、いわゆる「せん馬」を長く利用してきましたが、日本にはそもそも軍用馬を去勢する習慣がありませんでした。その後、慌てて騎兵の整備に奔走することになりますが、戦国時代の騎馬武者と近代的な騎兵では運用方法がまったく異なるため、人材の育成も含めて一から学ばなければならず、その道のりは難航を極めました。
日清戦争には不十分なまま突入! 日露戦争でも課題が残る!!
実は、1894(明治27)年7月から1895(明治28)年4月まで行われた日清戦争では、騎兵の整備が不十分なまま戦争に突入していました。独立した騎兵部隊として騎兵旅団が整備されたのは日清戦争直後のことであり、軍馬の管理を徹底し、優秀な血統は種牡馬として残し、軍馬として使用するせん馬とは明確に分ける「馬匹去勢法」が成立したのは、明治後期の1901(明治34)年でした。
都内、九段坂公園にある大山 巌像は、近代的軍馬の騎乗像。大山 巌は初代陸軍大臣であり、日露戦争では陸軍司令官を務めた(斎藤雅道撮影)。
しかし、その前年である1900(明治33)年に発生した義和団事件では、欧州各国の部隊と初めて共同作戦を行った際、日本軍歩兵の統率は高く評価された一方、騎兵については「小さい馬が多い」「隊列が乱れることがある」「馬の気性が荒く、輸送に時間がかかる」など、散々な評価を受けることになります。
そうした厳しい状況にもかかわらず、1904(明治37)年2月には日露戦争が勃発し、日本は当時、世界最高水準といわれたロシア帝国のコサック騎兵と戦わなければならなくなりました。
この戦争でコサック騎兵と互角以上の戦いを見せたのが、某小説でも有名な秋山好古少将が率いる騎兵第1旅団を主体とした秋山支隊です。ただし、機動力や突破力といった騎兵本来の能力においては、圧倒的にコサック騎兵のほうが優れていました。そこで秋山支隊は、騎兵部隊に歩兵、砲兵、工兵などを随伴させ、当時はまだ実戦での評価が定まっていなかった機関銃を効果的に運用することで、コサック騎兵を撃退しました。
日本海海戦と並び、陸上戦において日露戦争の勝敗に大きな影響を与えた「奉天会戦」では、第三軍の先鋒として行動し、機動力を活かしながら敵勢力を排除しつつ奉天市街の西側へ迂回することで、ロシア軍撤退の一因を作り出すことになります。
とはいえ、秋山支隊のように戦果を挙げた部隊ばかりではありませんでした。日露戦争中、日本陸軍では軍馬の貧弱さが露呈する報告が相次ぎ、ついには明治天皇自らが「馬匹改良のために一局を設けてはどうか」との勅諚を下すに至ります。
その結果、日露戦争中の1904(明治37)年4月7日に「臨時馬政調査委員会」が設立され、日本は戦後に向けて軍馬の改良を本格的に進めていくことになります。この時期から、乗馬用のアラブ種に加え、輓馬用のペルシュロン種などが海外から大量に輸入され、軍用のみならず農耕用の馬においても、日本の在来種は次第に数を減らしていきました。その結果、大正時代後期には、馬の体格も海外のものと大差ない水準にまで達することになります。
ようやく整備された第二次世界大戦中は?
第一次世界大戦を境に、騎兵の有効性は銃火器の発展や戦車の登場とともに次第に薄れていきました。しかし、あらゆるものが自動車化・機械化されている現在とは異なり、当時は状況によっては依然として有効な兵科でもありました。
靖国神社にある戦没馬慰霊像(斎藤雅道撮影)
日中戦争および第二次世界大戦では、主に中華民国軍を相手とした大陸での作戦において騎兵部隊が運用されており、特に騎兵第4旅団は、当時の日本軍に唯一残された大規模な乗馬騎兵部隊として、騎兵突撃なども実施しています。この突撃は、戦史上において「最後の大規模な乗馬襲撃の成功例」と評されることもあります。
なお、日本では日中戦争から第二次世界大戦にかけて、輓馬や駄馬として徴発された馬が約100万頭にのぼったといわれています。当時、物資輸送や伝令など、戦闘に直接関わらない任務まで自動車や装甲車で行っていたのは、主要参戦国のなかでもアメリカ軍くらいであり、機械化の遅れていた日本軍は、物資輸送や情報伝達に軍馬を駆使することでそれを補っていました。
馬の徴発令状は青色の紙であったことから「青紙」と呼ばれ、馬が貴重な労働力であった農村では、召集令状である「赤紙」によって徴兵された兵士と同様に、手綱を引いて盛大に見送られたといわれています。
これらの戦争で未帰還となった軍馬は約50万頭にのぼるとされます。この数字だけでも非常に大きなものですが、戦後は現地に残された馬がほとんどで、日本へ兵士とともに帰還した馬については、正式な記録が残されていないため正確な数は不明です。ただし、多く見積もっても数千頭程度だったと考えられています。後年、日本人とともに戦い、日本兵以上の「戦死率」であった軍馬を慰霊するため、「戦没馬慰霊像」が靖国神社に建立されています。
2026年現在、自衛隊では、馬術といったスポーツ競技の訓練を目的として、自衛隊体育学校のみが馬を飼育しています。兵種としての騎兵はすでに存在せず、その役割は機甲科が担っています。欧米諸国でも「騎兵」という名称自体は残っているものの、実際の乗馬騎兵は式典用に限られ、実働部隊の多くはヘリコプターや装甲車を運用する部隊となっています。
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