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【戦国武将に学ぶ】大内義興~将軍の復位をも成し遂げた軍事力と経済力〜

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  • 2021年09月26日
山口市の龍福寺資料館にある大内義興像
山口市の龍福寺資料館にある大内義興像

 周防(山口県東部)などの守護から勢力を伸ばした大内氏というと、最後の当主・大内義隆の名がよく知られていますが、大内氏繁栄の礎を築いたのは義隆の父・義興(よしおき)でした。

勘合貿易独占で巨利

 義興は1477(文明9)年、大内政弘の子として生まれています。周防、長門、豊前、筑前、安芸、石見の守護を務め、一時は山城の守護にもなりました。領国規模の大きさだけでなく、筑前守護として、その中心地・博多を掌握していたことが見逃せません。というのは、義興はその博多を拠点に、日明貿易、および日朝貿易に乗り出していたからです。

 その頃の貿易は「勘合貿易」といって、船舶の渡航証明書である「勘合符」を持つ船だけが貿易できる仕組みでした。はじめのうちは、大内氏も幕府の勘合貿易船団に加えてもらう形でしたが、やがて、幕府が弱体化し、義興の頃には大内氏が独占するようになっていたのです。

 義興は刀剣や扇などを輸出し、銅銭、絹織物、陶磁器などを輸入していました。特に、銅銭はその頃、日本で貨幣の鋳造が行われていなかったこともあり、莫大(ばくだい)な収入につながりました。もちろん、ただ収入を得るだけでなく、そのためのインフラ整備にも力を入れています。

 特に有名なのが博多湾の港湾整備で、これはある意味、設備投資といってよいでしょう。また、博多を直轄地とし、そこに代官と代官の次席といえる下代官(げだいかん)を置いて、博多商人たちの利潤から輸入税を取る「抽分銭(ちゅうぶんせん)」というものを制度化していたことも知られています。

 こうして得た経済力をバックに、義興は中央政界でも大きな存在感を示しました。管領(かんれい)の細川政元が起こしたクーデター「明応の政変」によって、将軍の座を追われた10代将軍・足利義稙(よしたね)を周防に迎え、1508(永正5)年に、その義稙を擁して上洛(じょうらく)し、義稙を将軍に復職させているのです。そのとき、義興は管領代となって、幕政をつかさどり、山城守護も兼ねています。

10年間の領国不在、痛手に

 この後、在京は10年間に及びます。その間、細川澄元との戦いなどもありましたが、幕政と京都の治安維持に力を発揮しました。しかし、義興が留守にしている間に、中国地方で出雲の尼子経久(あまご・つねひさ)が勢力を伸ばしてきたため、義興は1518(永正15)年、管領代を辞して帰国。1521(大永元)年からは毎年のように安芸に出兵し、安芸に勢力を伸ばしつつあった尼子経久の軍勢と戦っています。

 義興の領国経営の巧みさも注目すべき点です。広大な領国を効率よく支配するため、守護代を上手に使いました。陶(すえ)氏を周防守護代、内藤氏を長門守護代、杉氏を豊前守護代、弘中氏を安芸守護代といったように責任分担を明確にしていました。それぞれの守護代の下にそれぞれの国の国衆、すなわち国人(こくじん)領主(在地領主)が属す仕組みとなっていたのです。

 一時は尼子方となっていた毛利元就を大内方に引き戻したのも義興なので、武将としての力量は高かったものと思われます。全盛期には部隊長にあたる侍大将、および先手(さきて)衆クラスの部将が142人もいたといいます。「戦国最強」などといわれる甲斐の武田氏でも39人だったことを考えると、大内義興の軍団は戦国時代の大名の中で群を抜いていた感じです。トップクラスといってよいでしょう。それは日明貿易、日朝貿易によって得た経済力があったから可能だったといえます。

 ただ、惜しむらくは領国を固めていなければいけない大事な時期に10年間も領国を離れ、管領代という中央の要職に就いてしまったことです。その間に尼子経久の台頭を許してしまったことが、大内氏全体としては残念な結果をもたらすことになります。義興の死後、後継者の義隆は尼子氏に敗北し、陶氏の下克上によって自刃してしまいました。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

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