「讃岐の阪急」は本家を超えてた? ハイスペ設備に温泉・「宝塚」まで 先進的すぎた地方私鉄の構想
- 乗りものニュース |

「讃岐の阪急」を作り上げた若き実業家
香川県で3路線を営業する高松琴平電気鉄道(ことでん)は、1943(昭和18)年11月に讃岐電鉄、高松電気軌道、琴平電鉄の3社が合併して成立した歴史があります。その中で、現在の琴平線にあたる琴平電鉄は「讃岐の阪急」と呼ばれた先進的な事業者でした。
琴平線仏生山車庫で動態保存中の1000形電車120号車(筆者撮影)
「讃岐の阪急」を作り上げたのが若き実業家・大西虎之介です。大西は香川電力界の重鎮である景山甚右衛門や寒川恒貞などの県内有力者とともに1919(大正8)年9月、高松~琴平間の鉄道敷設免許を申請し、翌年2月に免許されました。
ところが第一次世界大戦の反動不況が訪れ計画は一時、中断。資本金500万円のうち大西ら中心人物が400万円を引き受ける形で、ようやく1924(大正13)年に琴平電鉄が創立。大西は34歳の若さで社長に就任しました。
同じ頃、関東では小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)や東京横浜電鉄(現・東急東横線)、関西では新京阪鉄道(現・阪急京都線)、阪和電気鉄道(現・JR阪和線)の計画が具体化していました。
大西には、これらの路線と遜色ない鉄道を作るという理想がありました。彼は阪神急行電鉄、阪神電気鉄道、南海鉄道を何度も視察し、各社の長所を積極的に取り入れました。
最大の特徴は地方私鉄には例のない高規格の採用です。大手も含め私鉄の多くが直流600Vや750Vだった時代、琴平電鉄はいち早く1500Vを採用しました。阪急宝塚線、神戸線の昇圧は1960年代ですから、「本家」を大きく上回っています。
変電所は1500V用としては日本初となる、ドイツシーメンス社製600kW水銀整流器2基を使用。電化柱は木製が珍しくない時代に、阪急をモデルとした四角の千鳥トラス鉄柱を採用しており、現在も一部区間で見ることができます。
軌間は関西私鉄で主流だった標準軌(1435mm)、車両は長さ約15mの半鋼製車体のボギー車を採用。機器類も制御装置、パンタグラフは米国製、ブレーキはスイス製、モーターはドイツ製を使用するなど、大手私鉄を上回る先進的な車両となりました。
徹底した「阪急モデル」とその遺産
四国新聞社編『讃岐人物風景』によれば、「讃岐の阪急」は車両が由来だったそうで、確かに1924(大正13)年に導入された阪急初の半鋼製車「500形」に遜色ない出来栄えです。開業時の車両である「1000形」120号、「3000形」300号が、2021年まで営業運転を続けたことも車両の先進性を示しているといえるでしょう。
駅舎にもこだわりました。大西が自ら陣頭指揮を執り、栗林公園駅は南海の羽衣駅、挿頭丘駅は阪急の仁川駅を参考に、都会的な西洋風建築を取り入れました。大西は雨の時に乗客が濡れないよう、ホーム屋根の勾配まで気を配ったといわれています。
会社創立後まもなく始まった工事は順調に進み、1926(大正15)年12月から1927(昭和2)年4月にかけて高松(現在の瓦町)~琴平間31.2kmを全通させました。同区間を所要時間約1時間、現在より多い20分間隔で運行。表定速度に換算して約30km/hで走破しました。
ちなみに1925(大正14)年の時刻表によると、省線讃岐線(現・土讃線区間も当時は讃岐線に含まれた)は同区間44kmを最速1時間38分、列車によっては2時間以上かかっていました。遠回りな上に表定速度約27km/h、しかも1日10往復程度ですから勝てるはずがありません。
同時期の本家・阪急は、阪急宝塚線が25.4kmを45分で約34km/h、阪急神戸線が30.1kmを35分で約51km/hとなっており、高速運転を前提に建設された神戸線は別格としても、宝塚線とはギリギリ比較できる数字です。
「讃岐の阪急」は鉄道にとどまりません。大西は阪急のビジネスモデルをそのまま取り入れました。例えば挿頭丘駅は「挿頭丘田園都市」の開発を前提に設置されたもので、1926(大正15)年4月に「南郊田園都市」会社を設立して約5.6万平米の土地を買い入れると、道路や下水道、テニスコートや売店を整備して、団地造成に着手しました。
また、注目すべきは1300年の歴史をもつ塩江温泉をめぐる取り組みです。大西は琴平電鉄が全通すると仏生山~塩江温泉間の鉄道建設に着手し、1928年8月に子会社「塩江温泉鉄道」会社を設立。1929(昭和4)年11月、標準軌のガソリンカー、車両は3軸片ボギー半鋼製車という珍しい形態で開業しました。
大西は「塩江温泉」会社を設立し、演芸場を持つ旅館を建設。なんと専属の少女歌劇団までつくり、「四国の宝塚」としてデビューさせたのです。温泉、鮎釣り、ホタル狩り、鵜飼い、紅葉狩りとありとあらゆるイベントで旅客誘致を図りました。
これからもわかるように、彼はマーケティングに長けていました。夏は、夕方の運賃を半額にして利用を促進し、食堂車を連結してビールや洋食を提供しました。また、念仏踊りで知られる滝宮に納涼会場を設置して、高松・琴平の双方から旅客を誘致し、2万人が訪れたこともあったようです。
「讃岐の阪急」の理想は、果たせぬ夢に
しかし業績は阪急並みとは行きませんでした。全線開通直前に昭和金融恐慌が発生。2年後の1929(昭和4)年には世界恐慌の影響が波及し、日本経済は長期にわたる不況に苦しみます。期待の挿頭丘田園都市は販売が滞り、通勤輸送、観光輸送も伸び悩みます。
経営が安定するのは1930年代後半、軍需主導で景気が上向いてからのこと。1938(昭和13)年7月に経営難に陥っていた塩江温泉鉄道を吸収合併した後、冒頭に記した通り3社合併により高松琴平電気鉄道が成立します(塩江線は1941年に不要不急線として廃止)。
大西が目指した「讃岐の阪急」は不況と戦争で果たせぬ夢となり、彼自身も社長在任中の1945(昭和20)年2月に病気で亡くなりました。その後は弟の禎夫が社長を継ぎ、禎夫の死後は虎之介の子・潤甫が2000年まで務めました。
2001(平成13)年のことでん経営破綻は、長きにわたる大西家の同族経営が要因のひとつであることは否めません。その後、ことでんは大西家とは離れて再生を果たしますが、虎之介の理想は今も受け継がれています。
彼は琴平電鉄の用地買収にあたり、将来を見越して全線にわたり複線化用地を確保しておきたいと考えました。発起人の有力者が「十年以内に複線化するならいいが、さもなくば無駄である」とさすがに止めますが、高松~一宮間の用地は確保しました。
現在、ことでん琴平線の高松築港~仏生山間を全区間複線化する工事が進められています。このような工事は用地買収がネックになりますが、大西の慧眼が100年の時を越えて後押ししているのです。
どん底から復活を遂げたことでんは、今では地方交通の優等生と言われています。地方交通は厳しさを増していますが、今後は「讃岐の阪急」ならぬ「〇〇のことでん」が日本各地に誕生するよう、期待を込めて見守っていきましょう。
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