1日50万人が利用する「都営バス」 誕生のきっかけは100年前の関東大震災だった!
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「円太郎バス」とは何か
都営地下鉄の車内などに掲示されているレトロな雰囲気の「円太郎バス」のポスターをご存じでしょうか。東京都交通局が所蔵する「円太郎バス(東京市営乗合自動車)」は2020年3月に自動車として始めて国の重要文化財に指定。これを記念して、2021年春から特設サイトが開設されています。
サイトに書いてありますが、このバスが導入されたのは関東大震災(1923年)がきっかけでした。
円太郎バスはその復興過程で登場し、1日平均50万1000人(令和2年度。コロナ禍以前は63万人)が利用する都営バスの出発点となったわけです。さて、一体どういうものだったのでしょうか。
初の路線バス登場は1919年
路面電車網が張り巡らされていた東京の市街地に、初の路線バスが登場したのは1919(大正8)年3月です。これを始めたのは実業家の堀内良平(富士急行の創設者)が設立した民間企業・東京市街自動車でした。当時は新橋~上野を走っていました。
東京市(当時)では、それ以前から路面電車を補完する公共交通として、バス(乗合自動車)の運行を計画していました。路線バス登場の8年前となる1911(明治44)年8月には、早くも新橋~上野~浅草間の運行が考えられています。また、1913年には、京王電気軌道が鉄道開通までの先行として新宿~笹塚間で運行を行っています。

こうしたなか、東京市も路面電車が走っていない地域でのバス路線の展開を考えていましたが、管轄する警視庁は難色を示していました。当時の道路の路面は現在のように強固ではなく、重い乗合自動車が多く走るようになれば、路面が著しく傷むことが危惧されたからといわれています。
しかし、公共交通としてのバス導入は都市の発展において欠かせませんでした。東京市では許可を受ける機会をうかがっていましたが、それより先に前述の東京市街自動車(民間)が許可を得ることになりました。
関東大震災で壊滅した路面電車網
この背景には、1918(大正7)年に警視庁が荷車取締規定を定めたことにあります。
荷車取締規定とは、道路の破損原因のひとつであった荷馬車のサイズや積載量を規定し、トラックへの転換を促すものでした。当時のトラックは高価でしたが、補助金制度もこの時期に始まっています。なぜなら、トラックは戦時に徴用して使えるからです。
このとき、トラック輸送への参入を警視庁から求められた堀内が乗合自動車の営業も求めたことで、東京の市街地にバスが登場することになります。
民間に先に許可を出したことに対して、議決機関である東京市会では反対論もありましたが、一蹴され営業運転が始まります。営業には、アメリカから輸入された30台のトラックを改造した車両が採用されました。車体の状況や当時の道路事情を考えても、乗り心地は決してよいものではなかったことが想像できます。

こうして民間から始まった東京のバス路線の事情を大きく変えたのが、1923年9月1日に発生した関東大震災でした。震災で東京都の路面電車網は壊滅的な被害を受けます。路線の復旧は早期に進みましたが、肝心の乗客を運ぶ電車の多くが損傷していました。
震災から1か月ほどがたった10月6日、東京市会は応急処置として、乗合自動車の導入を決定。即日承認され予算200万円がつけられます。警視庁も翌年7月までの期間限定で許可を出します。
事業を進めるため、東京市電気局の長尾半平局長は三菱造船所に勤めていた技師・矢板豊一をスカウトします。
長尾局長は、アメリカで大量生産されているTT型フォードを輸入して自動車の確保を考えていました。面接にやってきた矢板技師は、カタログと写真を渡されて、その場で購入計画の書類の作成を指示されました。「もう、今日明日にでも自動車が欲しい」という切実な状況だったのでしょう。
10月25日にはディーラーと1000台(後に800台に修正)の契約が結ばれます。しかし自動車はそろったものの、今度は、それらが運ばれてくるまでに運転手を確保しなければなりませんでした。
みすぼらしいが便利だったバス
当時、自動車が運転できることは極めて高度な特殊技術でした。東京市はまず1000人を採用、陸軍自動車隊や日本自動車学校、帝国自動車学校など、あらゆる機関を使って運転手を養成しました。
こうして翌年1月12日には最初の1台が導入され、18日から営業運転が始まります。最初の路線は巣鴨~東京駅と中渋谷~東京駅の2系統でした。
改造TT型フォードを最初に見た長尾局長は、思わず「ひどい」と驚いたそうです。なにしろ、震災前に東京市街自動車が使っていた車両(通称:青バス)が1台1万2000円だったのに対して、こちらは1800円という激安。トラックの側面に板を張って屋根にほろを張った、急ごしらえのものです。定員は11人で、屋根が低いため立って乗ることはできませんでした。

そんなバスですが、明治の落語家の橘家圓太郎が乗合馬車をネタにしていたことにちなんで、「円太郎バス」と呼ばれるようになりました。今となっては「円太郎バス」はノスタルジックな言葉ですが、当時はあまりのみすぼらしさに「明治に戻ったのか」というやゆの意味も込められていました。
一方、人気は上々でした。3月までには20系統の運行が始まり、1日平均で5万4000人が利用し、1日平均で6400円の売り上げがありました。
こうして運行が始まった市営バスですが、同年6月には路面電車の復旧が完了し、廃止予定の7月を迎えます。
しかしこの短期間に、多くの人が「バスは便利」と知りました。そこで東京市会は7月26日に存続を決定、台数を302台に減らし、9系統に整理して運行することに決めたのです。
1924年には女性車掌の乗務も開始
恒久化が決定したことで、円太郎バスの改造も行われました。屋根を高くしたりステップを設けたりするなど改造され、乗客が立って乗れるようになります。
ただ、当時のスペックを見ると座席定員13人、乗客定員15人とありますから、正しくは「立って乗れないこともない」というレベルだったのです。
ともあれ1924(大正13)年12月には女性車掌の乗務も始まり、東京市営によるバス運営は軌道に乗っていきました。
そんな「円太郎バス」ですが、以前は交通博物館(2006年閉館)に保存されていましたが、今は鉄道博物館(さいたま市)の所蔵として、東京都交通局が西高島平駅倉庫に保存しています。

現在、展示は行われておらず、一般公開は2011(平成23)年に江戸東京博物館(墨田区横網)で行われたのが最後となっています。せっかくの文化財ですので、ぜひ今後も展示を行ってほしいものです。
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