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【戦国武将に学ぶ】母里多兵衛~名槍「日本号」をのみ取った豪傑〜

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  • 2021年11月28日
福岡市内にある母里多兵衛の像
福岡市内にある母里多兵衛の像

 黒田官兵衛・長政親子を支えた母里多兵衛について、人名辞典の中には「母里太兵衛」と立項し、読み方を「もり・たへえ」としているものもありますが、「太兵衛」ではなく「多兵衛」が正しく、また、「もり」ではなく「ぼり」です。本山一城氏の「黒田軍団―如水・長政と二十四騎の牛角武者たち−」によると、2代目以降が初代の多兵衛を畏敬して、代々、「太兵衛」と称したので誤解が生じたとしています。諱(いみな、本名)、すなわち、名乗りは友信といいました。

黒田官兵衛を支え、数々の戦功

 1556(弘治2)年の生まれで、1569(永禄12)年、黒田官兵衛に仕えています。ただ、若い頃の多兵衛は頑固でがむしゃら、やや無分別な行動が目立ったらしく、心配した官兵衛は、多兵衛より年上で冷静沈着な栗山利安と義兄弟の契りを結ばせたといいます。1573(天正元)年の初陣から、官兵衛のほとんどの戦いに出陣し、活躍するのです。

 中でも、目ざましい活躍ぶりが伝えられているのが豊前宇留津(うるつ)城(福岡県築上町)の戦いです。これは豊臣秀吉による九州攻めの前哨戦の一つで、1586年11月7日、小早川隆景、黒田官兵衛らの軍勢が島津方賀来(かく)氏のこもる宇留津城を攻めた戦いで、このとき、多兵衛は一番乗りの戦功を挙げました。

 この九州攻めの論功行賞で、黒田官兵衛には豊前の3分の2、石高にして12万石が与えられ、そのとき、多兵衛も栗山利安、井上之房と一緒にそれぞれ6000石を与えられ、家老となっています。

 1592(文禄元)年に始まる朝鮮出兵、すなわち、文禄の役・慶長の役でも、多兵衛は後藤又兵衛、黒田一成(かずしげ)と交代で先手(さきて)を務めていますので、「黒田二十四騎」といわれる中でも、傑出した存在だったと思われます。

福島正則の願い、断った頑固さ

 ただ、多くの人は母里多兵衛というと、そうした武功よりも、名槍(めいそう)「日本号」をのみ取ったというエピソードの方でご存じかと思います。これは朝鮮半島から戻っていたとき、つまり、文禄の役と慶長の役の間のことです。

 どのような用件だったのか詳細は伝わらないのですが、あるとき、多兵衛は官兵衛の子・長政から、福島正則のもとへ使いに行くよう命ぜられました。当時、秀吉の居城が伏見にあって、伏見城下には諸大名の屋敷があったのです。その日、既に正則はだいぶ酔っていて、用件が終わって帰ろうとする多兵衛を引き止め、大杯で酒をのむよう迫りました。

 正則は「のみ干したら、何でも欲しいものを差し上げよう」と言い、それに対し、多兵衛が「では、あの長押(なげし)の槍(やり)を」と言って見事にのみ干し、「日本号」を持ち帰ってしまったというエピソードです。

 翌日、酔いからさめた正則は自分の失態に気付き、「あの槍は太閤秀吉さまから拝領した秘蔵の槍なので、返してほしい」と掛け合ったのですが、多兵衛は返しませんでした。いかにも頑固者・多兵衛らしいところです。その頑固さと豪快さで、名前が広く知れ渡ったといってよいでしょう。

 1600(慶長5)年の関ケ原の戦いのとき、多兵衛は官兵衛に従い、九州諸城を攻めています。関ケ原の論功行賞で長政が筑前52万石を与えられて福岡城主となったとき、多兵衛は鷹取城(福岡県直方市・福智町)の城代となり、1万8000石を与えられ、次いで、後藤又兵衛が黒田家を出奔した後、又兵衛が城代を務めていた大隈(おおくま)城(同県嘉麻市)の城代となっています。

 1606年には、江戸城天守台石垣普請の奉行を務めました。このとき、徳川家から多兵衛に与えられた書状に誤って「毛利」と書かれたため、以後、明治に至るまで、子孫は姓を毛利に改めたといわれています。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

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