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戦争終わったはずじゃ!? ソ連潜水艦による一週間後の惨劇「三船殉難事件」1700人余が犠牲 でも日露両政府は認めず 何故?【前編】

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  • 乗りものニュース
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8月15日は「終戦の日」と呼ばれるため、この日をもって戦争が終わったと思われがちです。しかし、南樺太ではその後も戦闘は続き、しかも北海道の沖合では民間船が沈められ、多数の犠牲者が出ていました。

「三船殉難事件」の時代背景

 日本で8月15日というと、一般的には「終戦の日」でしょう。1945(昭和20)年の当日正午に行われた「玉音放送」によって、多くの国民に対し終戦(敗戦)が知らされたからですが、実は15日以降もいくつかの場所では戦闘が起きていました。

Large figure1 gallery5ウラジオストクで屋外展示されている旧ソ連海軍のS56潜水艦。艦内は博物館として用いられている(画像:PIXTA)。

 なかでも当時日本領であった南樺太では、上陸してきたソ連軍に対し、沖縄と同じような住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられました。その中で大きな悲劇として記憶されているのが、避難民を乗せ南樺太から北海道へと向かっていた緊急疎開船の「小笠原丸」「第二号新興丸」「泰東丸」の3隻が8月22日に相次いで潜水艦による攻撃を受け、2隻が沈没、1隻が大破して1700人以上もの犠牲者が出た「三船殉難事件」です。

 そもそも南樺太とは、樺太(ロシア名サハリン)島の南側、北緯50度以南の地域のことです。ここは日露戦争の講和条約として締結された1905年のポーツマス条約以降、日本が領有権を得た区域で、ロシアと直接国境を接する日本領でもありました。

 ここで終戦後に戦闘が起きた背景には、同年8月8日から始まったソ連の対日参戦がありました。まずは国境を越え満州に攻め込んだソ連軍ですが、続いて南樺太や現在の北方領土を含む千島列島の攻略に乗り出します。南樺太では8月9日、日ソ国境を越えた砲撃があったのち、11日早朝から侵攻が始まりました。この作戦の延長線上には、北海道への上陸作戦計画もあったとされています。

8月15日の後に起きた樺太の戦い

 当時の南樺太には、旧日本陸軍の第5方面軍(司令部:札幌)指揮下にあった第88師団が守備隊として駐留していました。正規の部隊だけでは兵力が足らず、現地の一般住民に対して防衛招集をかけ、地区特別警備隊や国民義勇戦闘隊を組織して補助戦力とし、侵攻してきたソ連軍に対して応戦しています。

Large figure2 gallery6留萌市の海のふるさと館横公園に建てられている「樺太引揚三船殉難(からふとひきあげさんせんじゅんなん)平和の碑」(柘植優介撮影)。

 玉音放送後の8月16日、大本営は停戦交渉成立前に相手が攻撃した場合などの「やむを得ない自衛」を除いて、ただちに戦闘行動を停止するよう全軍に命令を出しました。しかし、第5方面軍は第88師団に対して南樺太の死守を命じ、戦闘継続を指示。これは、第5方面軍の司令官である樋口季一郎中将が、ソ連の占領によって当地の赤化(共産主義化)を懸念したためとも考えられています。

 同じく16日にはソ連軍の上陸作戦が始まり、学徒や女性を含む一般住民で組織された義勇戦闘隊も参加して戦闘が展開され、多くの犠牲者が出ました。20日からは南部の海岸にもソ連軍が上陸して攻撃を加えましたが、その最中には真岡郵便電信局の電話交換手だった女子職員10名が局内で集団自決し、うち9名が死亡した「真岡郵便電信局事件」なども起きています。

 このような一般住民を巻き込んだ戦闘が繰り広げられる一方、戦闘に参加できない高齢者や小さな子、その母親などを緊急に疎開させる計画も進められます。まず13日には、樺太南部の大泊港から鉄道省の稚泊連絡船「宗谷丸」が出港。これを皮切りに、北海道への疎開船が運航され始めました。

 こうした緊急疎開が進められるなか、「三船殉難事件」は起きてしまいました。

小笠原丸の沈没

「小笠原丸」は、逓信省(現在のNTTや日本郵政の前身)の海底ケーブル敷設船でした。当初は逓信省関係者を乗船対象にしていたようですが、最終的には一般の避難民を含め1500人ほどを乗せて8月20日に稚内に向け、大泊を出港しています。

Large figure3 gallery7海底電纜(でんらん)敷設船「小笠原丸」(画像:留萌市教育委員会)。

 船には海軍の警備兵が乗り組んでおり、砲や機銃も特設されていましたが、こうした銃砲類は8月15日の終戦を受けて覆いが被されていたそうです。また、米英をはじめとした連合国軍からの指示により、誤って攻撃されないよう一定の無線信号を出し、夜間には自船の位置を示す航海灯も掲げていました。

 大泊から稚内までは、船でまる1日ほどかかります。21日、一般の避難民が下船する予定の稚内には無事到着したのですが、次の目的地である小樽の方が交通の便が良いため引き続き乗船したいという声が避難民から多く出た結果、約600人が船に残り、船員・兵士100人とともに小樽へと向かいました。

 こうして稚内から日本海へと航行していた「小笠原丸」でしたが、8月22日未明に潜水艦による魚雷攻撃を受け、沈没しました。その様子は、留萌にある防空監視哨(敵機の飛来をいち早く見つけるための監視施設)からも望遠鏡で確認できたといいます。

 攻撃してきた潜水艦は小笠原丸の沈没後浮上し、海に投げ出された人々に対し機銃掃射を加えたとの証言も残ります。この攻撃により乗客乗員600人以上が死亡し、生存者は60人あまりでした。

 なお、この「小笠原丸」に乗船し、稚内で降りて難を逃れた避難民の中に、納谷幸喜という5歳の少年がいました。少年は成長して力士となりました。のちの横綱「大鵬」です。

第二号新興丸、攻撃を受け大破

「小笠原丸」が潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈没したおよそ1時間後のことです。同じく南樺太からの避難民約3400人を乗せ、大泊から小樽へと向かっていた海軍の特設砲艦「第二号新興丸」が、留萌沖で潜水艦から魚雷攻撃を受けました。

Large figure4 gallery8特設砲艦兼敷設艦「第二号新興丸」(画像:留萌市教育委員会)。

 魚雷が直撃し、船腹に縦約5m、横10mほどの穴が開いたものの、かろうじて沈没は免れました。攻撃してきた潜水艦は海面に浮上し、なおも砲撃や銃撃を加えます。

「第二号新興丸」は元々民間の船舶でしたが、1941(昭和16)年に海軍に徴用され特設砲艦となり、主に宗谷海峡周辺で機雷の敷設などに従事していました。特設砲艦に改装された際、砲や機銃座が設けられており、これらを使って潜水艦の攻撃に対して応戦したと伝わっています。

 ただ、沈没は免れたとはいえ、魚雷の爆発で死傷者が出たことに加え、船腹に開いた穴から多くの乗船者が流されたそう。傷ついた船はなんとか留萌港にたどり着きましたが、船内で確認された遺体は229体、それに加えて海に流されたとみられる行方不明者は400人近くにのぼりました。 (続く)

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