「デカい! 高い!!」現存唯一「日本戦艦の砲塔」を実見 このたび現存が確認された部品も
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広島県江田島市の海上自衛隊第1術科学校には、戦前に戦艦「陸奥」から降ろされた砲塔と主砲が今も教育用として残されています。2年前の取材では砲塔上部から内側へ入りましたが、今回は基部に入って底から上がる形で見学しました。
2年ぶりの再会、変わらずデカい!
2025年2月、筆者(吉川和篤:軍事ライター/イラストレーター)は、2年ぶりに広島県江田島市にある海上自衛隊第1術科学校を訪問しました。今回も特別な許可を得て、一般公開されていない各種施設や展示物を見学させてもらいましたが、その中には再訪となる戦艦「陸奥」の砲塔がありました。
連装砲身を江田島湾へ向けて立つ戦艦「陸奥」の旧4番砲塔。手前に見えるのは駆逐艦「梨」に搭載されていた、九二式4連装魚雷発射管(吉川和篤撮影)。
この砲塔は訓練用の短艇(カッター)を吊り下げているダビッド(小型クレーン)の横にスックと立っており、その長大な砲身は常に江田島湾を向いています。これは実際に日本帝国海軍の戦艦「陸奥」に搭載されていた本物で、2年前に見たときと変わらずに「デカい!」のひと言です。
加えて「地面から高い!」。じつは軍艦の砲塔は、船体に隠れた見えない部分の方が構造物として大きいことがひと目でわかります。それにしてもどうして戦艦の砲塔が現在まで残されているのでしょうか。
1921(大正10)年に、長門型戦艦の2番艦として横須賀海軍工廠で建造された「陸奥」は、全長が215.8mで基準排水量は3万3000トン(改装後は全長224.94m、基準排水量3万9000トン)もある大型艦でした。当時は40cmクラスの主砲を装備した戦艦は世界でも7隻しか造られておらず、姉妹艦の「長門」とともに旧海軍の象徴として「世界の七大戦艦」などと呼ばれて日本国民に親しまれました。また、一時期は連合艦隊の旗艦にもなっています。
その後、1934(昭和9)年に行われた近代化への大改装時には、主砲の仰角を上げる目的で、軍縮条約の影響を受け製造が中止された加賀型戦艦2隻の余剰砲塔に換装することが決定。これにより、先に搭載していた45口径三年式40cm(正確には16インチ/40.6cmのため41cm表記もある)連装砲塔4基を降ろしています。この時、最後部の4番砲塔が江田島の海軍兵学校(当時)に移設され、砲の操作訓練の教材に転用されました。
底から上を見てみると
2年前の取材では第1術科学校の特別な許可のもと、一般では立ち入りが禁止されている砲塔内部を見学することができました。そのときのレポートは過去、記事にしています。
砲塔基部の左側に設けられた小型の扉。ここから入って砲塔基部の底面に上がった。右側の階段脇には見学者が被ったヘルメットが見える(吉川和篤撮影)。
今回の取材目的は、再び上側にある40cm連装砲塔の内部を奥まで見学することと、前回実現しなかった砲塔基部(バーベット)を下から入って内部見学する、この2点です。
そこで、前回と同じく特別な許可を得て、海上自衛隊の広報担当が立ち会うなか見学。頭部保護のためヘルメットを被ったのち、まずは側面の階段を昇って砲塔上部の内側へ向かいましたが、足元には舞台の奈落のように、下まで抜けた穴があり危険なため、常に注意が必要です。そして、今回は左右の砲身のあいだに仕切られた幅の狭い部屋の先まで行き、中央旋回手と中央照尺手用、これら2つの円形座席の存在も確認することができました。
そのあとは、いよいよ砲塔基部の内部に入ります。階段を降りて左右にある小さな扉から向かいましたが、多角形構造の砲塔上部に対してその基部は円筒形の装甲板に覆われたシンプルな外観で、大部分は船体に埋まって通常は見えない部分です。江田島に設置された4番砲塔は中甲板の区画までで、別の1番砲塔の構造図を見ると、さらにその下には中央揚弾薬筒や火薬庫と繋がった給薬室が続いていたことがわかります。
砲塔基部の底は回転するために空間が設けられており、その下は実際の戦艦とは異なりコンクリート製の円形土台になっています。そこから脚立を使って内部に入ると、揚弾薬筒を取り囲むように隔壁で仕切られた円形の足場があり、装薬用の揚弾機やレバー類、ボンベ、ギアなどが所狭しと並んでいました。三年式40cm砲の装填や尾栓の開閉は水圧式なので、この砲弾や装薬を上に送るリフトや砲塔の旋回も水圧式だと思われます。
さらに垂直ラッタル(はしご)で上の階にも繋がっていて、各階の天井の高さから考えると砲塔上部までまだ2、3階層はありそうでしたが、時間切れで今回の取材見学はここまでとなりました。この先は、今後の調査に期待したいと思います。
江田島に残るシンボルとして
しかし教材用とはいえ、海軍兵学校の「陸奥」の砲塔は実射可能だったため、沿岸砲として使用されることを恐れたアメリカ軍によって1945(昭和20)年8月の終戦後に爆破されてしまった結果、現在の砲塔内部は大きく破壊された状態です。
「陸奥」砲塔の周囲には、教育用に戦中や戦後の火砲や攻撃展示の兵器が展示されていた。写真は戦後の護衛艦に搭載された旧式のMk.33 3インチ連装砲塔で、かつては訓練用に中に乗って操作が可能であった(吉川和篤撮影)。
それでも外部は完全に破壊することはできず、海上自衛隊第1術科学校の教材および記念碑として戦後も残され、現在も江田島湾に向けてその威容を誇っているのです。
ところで戦艦「陸奥」の本体は、どうなったのでしょうか。実は太平洋戦争半ばの1943(昭和18)年6月8日、広島湾沖の柱島付近で火薬庫の大爆発を起こして、瀬戸内海に轟沈しています。
船体が、真っ二つになるほどの大事故にもかかわらず、その爆発の原因は不明。乗員1474名の内で救助された者はわずか353名という大変な悲劇ながら、戦争中ということもあり軍部はこの事実を公表しなかったため、日本国民は終戦まで知らないままでした。
戦後、1970(昭和45)年までのあいだ、何度かに分けてサルベージ船による引き揚げ作業が行われた結果、40cm砲の砲身は生まれ故郷である神奈川県横須賀市のヴェルニー公園や長野県東筑摩郡の聖博物館、広島県呉市の大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)などに展示されています。それでもまだ引き揚げ切れなかった船体の一部は、現在も柱島付近の海底に眠っています。
しかしこの江田島にある旧4番砲塔は、改装のために降ろされたとはいえ元々は戦艦「陸奥」に搭載されていた実物で、その大きさからかつての船体のスケールを想像させるのに余りある存在といえるでしょう。
そのため、今後も江田島の海上自衛隊第1術科学校のシンボルとして、末永く残されることを願って止みません。
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