弱かったから記憶に薄い? 国内に現存しない旧日本陸軍の「中戦車」奇跡の里帰りなるか 一体どんな戦車?
- 乗りものニュース |
旧日本陸軍の中戦車をご存じでしょうか。日本はかねてから戦車を国産できる数少ない国のひとつですが、例えば「九七式改」の知名度が低いのは、国内に現存しない点も影響してそうです。ただ、間もなく日本へ里帰りするかもしれません。
「防衛技術博物館を創る会」が尽力
「ゼロ戦」「大和」といえば、太平洋戦争を戦った旧日本軍の兵器として多くの人に知られています。しかし「九七式中戦車」はどうでしょう。ましてや「九七式中戦車改」(九七式改)となってはほとんどの方が「?」と思うのではないでしょうか。ただ、当時は日本陸軍の主力戦車だったのです。
日本への譲渡契約が済んだ、テキサス州の太平洋戦争国立博物館にある九七式中戦車改(画像:NPO法人「防衛技術博物館を創る会」)
終戦から80年が経過しましたが、「ゼロ戦」は航空自衛隊浜松基地浜松広報館など国内に複数機が保存されており、戦艦「大和」は広島県呉市の「大和ミュージアム」でその雄姿を偲ぶことができます。しかし九七式改は国内に1台も残っていません。
静岡県御殿場市を拠点とするNPO法人「防衛技術博物館を創る会」により、九七式改をアメリカから日本に里帰りさせようというプロジェクトが始まっています。すでに譲渡契約済であり、2025年1月現在は日本に輸送する費用を賄うクラウドファンディングが実施されています。
防衛技術博物館を創る会は、九五式小型乗用車(くろがね四起)のレストアに成功し、イギリスから可動する九五式軽戦車の里帰りを実現させた実績を持ちます。目標は、九七式改も可動状態にレストアすることだといいます。
では九七式改とは、どのような戦車だったのでしょうか。「改」の文字が示すように、九七式中戦車の改良型で、57mm戦車砲を47mm戦車砲に交換したものです。口径は小さくなったものの砲身は長くなり、砲塔も大きくなりました。
日本は戦車の導入が早く、戦車を国産できる能力を獲得できた数少ない国でした。しかし運用法の確立とそれに見合った開発は難航しました。海運の制約や中国大陸での運用で「軽くて速い」ことが必須条件とされましたが、走(機動力)・攻(火力)・守(防御力)の3要素を、どうバランスをとるのかは意見百出だったのです。試行錯誤するほど割けるリソースもなく、終戦まで結論を得られなかったともいえるでしょう。
ソ連のBT戦車から得た戦訓 太平洋戦争で生きた?
旧日本陸軍の戦車は一般的に低評価です。「ゼロ戦」や「大和」がライバルに比べて引けを取らかったのに対し、旧日本陸軍の戦車はライバルより弱かったという印象による所が大きいようです。
太平洋戦争国立博物館にて、撮影用小道具の九五式軽戦車プロップとM3軽戦車のツーショット(画像:NPO法人「防衛技術博物館を創る会」)
当初、日本戦車は歩兵の援護をする「歩兵直協」が基本コンセプトであり、主砲には敵の火点や歩兵を制圧する榴弾砲を装備しました。九七式の57mm砲は短砲身で低初速、弾道は目視で追えたといいます。榴弾は破裂して破片をまき散らす砲弾で、装甲貫通力はほとんどないので、対戦車戦闘には向きません。
しかし九七式中戦車は初陣で、基本コンセプトであった歩兵直協と違った戦い方を経験します。1939(昭和14)年5月のノモンハン事件です。
日本の戦車隊は安岡正臣中将指揮の第1戦車団が歩兵直協の方針を取らず、独自に機動力を発揮して夜間奇襲を実施するなど戦果を挙げました。これは近代的機甲戦闘の先駆けともいえる戦術でした。一方で高初速の47mm対戦車砲を装備するソ連のBT戦車に対しては苦戦を強いられます。九七式は初陣早々で日本の戦車運用に疑義を突き付けられることになったのです。
ライバルであるソ連のBT戦車を見据えて旧日本陸軍は同年8月、対戦車戦闘用に長砲身高初速で徹甲弾が使える47mm速射砲を搭載する戦車の研究に着手します。一式47mm戦車砲を装備できる砲塔を再設計して九七式に搭載し、1940(昭和15)年9月に試作車が完成しました。1941(昭和16)年9月に仮制式となり、ここに「九七式改」が誕生したのです。
ちなみに同年に採用された列国戦車は、ドイツのIV号戦車F2、ソ連のT-34-76、アメリカのM3、イギリスのチャーチル Mk I/IIなどがあり、75mm級戦車砲が導入され始めた時期でした。
欧米列強の戦車は、強かった
1941年12月22日、日本軍戦車部隊は初めてアメリカ軍と本格的な戦車戦を行います。ルソン島のリンガエン湾に上陸した戦車第四連隊の九五式軽戦車が、アメリカ軍のM3軽戦車の迎撃を受けたのです。
オーストラリア軍に鹵獲された九七式中戦車改(月刊PANZER編集部蔵)
M3と九五式は同じ軽戦車でしたが、九五式はM3に命中弾を与えても撃破できず、逆にM3の攻撃により損害を出します。宿敵M3にはほかの戦線でも手を焼き、誕生したばかりの九七式改に期待が集まります。
九七式改は1942(昭和17)年3月29日にフィリピンに到着。4月3日に鹵獲(ろかく)したM3を標的に、一式47mm戦車砲の試射を実施し、前面装甲を射距離1000mで貫通できることが確認されました。現地部隊は安堵したそうです。
明確な資料はありませんが、一説によると旧日本軍はビルマやフィリピンでM3を31両鹵獲したとされています。徹底的に分析して「アメリカ軍は軽戦車に分類しているが、日本軍の基準では中戦車である」と評価しました。
さらに動く車両を自軍に編入し、「日本が実戦に投入した最強の戦車は鹵獲したM3軽戦車」などともいわれます。BTをライバルとした九七式改が設計された頃から時代は進んでいました。
期待の九七式改の初陣は、1942年4月7日のバターン半島での追撃戦で、旧日本陸軍は他中隊と共同でM3を3両撃破します。兵力の差や運用練度、他兵科との協力関係もあり、九七式改は宿敵M3を相手に有利に戦いを進めました。
対戦車戦闘を本務とする九七式改の目的は達せられたといえますが、この段階ではフィリピン戦は決着しており、この後の戦車戦は1944(昭和19)年のアメリカ軍上陸まで起こりません。そしてこの時、九七式改と同じ中戦車の強敵M4シャーマンが登場し、苦戦を強いられることになります。
登場時の九七式改はライバルと比べても弱かったわけではありませんでした。ソ連のBT戦車との戦訓から生まれ、宿敵M3と初の日米戦車戦を戦い、最後は強敵M4と相まみえることになりました。第2次大戦中の列国の戦車進歩は異次元レベルであり、日本には進化を続けるライバルに追いつけるリソースが足りなかったのでした。
九七式改と九五式軽戦車が並ぶ姿を国内で見られる日が間もなくやって来ます。旧日本陸軍の戦車は本当に弱かったのか。現代目線で議論百出するのは結構ですが、実物を見ること以上の歴史検証はありません。
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